文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年3月29日】今朝、動功をしているとき、頭に一つの場面が浮かんできました。自分とまったく同じ外形をしていますが、表情は利己的で、嫉妬している様子で、感覚的にこれは「自我」だと分かりました。この瞬間、「自我」とは何か、「自我」の意味がぱっと明確に分かるようになりました。前からいつも自我を放棄しようと思っていましたが、自我に関する同修の交流文章の内容は完全に理解できず、「自我」とは何か、表面のことにとどまり、根本なことを掴んでいなかったため、放棄しようと言っても、自我自体についてはまだ分からないままでした。今やっと明白になってすっきりし、ここで自分の体験と少しの悟りを同修と交流したいと思います。
つまり、自我は、利己的な自分であるということではないでしょうか? 各種の観念、人心及び業力で成り立った生命であり、本人と同じ外形ですが、考えることや行なうことはすべて自分のためで、目的は自分の欲望を満たし、自己の利益を得るためです。自我に操られた時の私たちは、怒ったり、嫉妬したり、恨んだり、顕示したり、闘争したりするなど、いろいろな良くない状態が現れます。自我が殻のように真の自我を囲み、主意識が弱まる時、真の自我の代わりに物事を考えて行動し、そのうちだんだん真の自我が埋もれてしまいます。真の自我というのは、つまり先天の生命であり、宇宙の真、善、忍の特性に符合しています。法を正す中で、師父はすでに私たちの先天の生命の中で宇宙大法から外れた部分を正してくださったので、真の自我が出てくると、完全に新宇宙の基準に満たしている生命となります。自我を放棄することは、つまり私心や欲望から成る、自分と同じ外形をした業力を徹底的に取り除き、真の自我が自分の一つの考え、一つの念を主導することになります。
これらの事が分かってから、再び人心が湧いてきたとき、偽の自分がまた来たと自分に言い聞かせ、直ちに捉えることができるようになってから、取り除くことも以前より容易になったようです。