自我を放下し、「私」から抜け出す
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 【明慧日本2013年6月21日】小さい頃から、私はいつも周辺から「一つの理に拘る」、「まじめ一点張り」と言われ、何故そう言われるかはずっと分からずにいました。心の中でいつも思っていたのは、「私は正しいから、自分の正しさを堅持しているだけで、まさか間違った方法に沿ってやるべきというのですか? まじめ一点張りでなければ、まさかいい加減で適当に生きるべきだというのですか?」 更に、邪党文化の「愛憎を明白に分別すべし」という毒素による洗脳で、私は益々自我に執着し、しかも一時このような自分が誰よりも偉いと思っていました。

 修煉後、「忍」はすべきこととは知りましたが、しかし、私の忍に対する認識が非常に浅く、ただ単に自分の口を修め、人と衝突せず、トラブルを引き起こさないことだと思っていました。よって、表面上では私は誰とでも和気藹々ですが、しかし、内心は変わらず、口に出さないものの、心の中ではいつも引っ掛かりが一杯でした。どんなことに遭遇しても、心の中でいつも思うのは、この人のここが間違っている、あの人のあれが違う、このことはこうしては良くない、ああすれば間違ってしまうなどなど、心は静かになったことがありませんでした。

 最近、数人の同修に、私が「牛の角先に向かって潜り込むようなことをやっている」(『轉法輪』)と言われ、びっくりしました。冷静になって考えてみると、修煉のことは常人のこととは違い、法理を間違って理解してはならず、同修と交流を試みても、自分で考えても何故そう言われるかを理解できず、私は師父にお尋ねしました。師父、なぜ皆が私にこのような指摘をしたのですか? 同修の不足を指摘してあげることがなぜ、牛の角先に向かって潜り込むことですか? 私にこのような問題があるのでしょうか? こう思って私は『轉法輪』を開け、目に入ってきたのは「あります。この点は確かです。」私は本を閉じ、心が静まりました。師父もそうおっしゃるなら、間違いなく私に問題があります。まだまだ納得はいかないが、しかし微かに感じるのは、自分の修煉は足取りが必要以上に重く、釈然とせず、多くの事への手放しが遅く、よく人に付き纏い、人との付き合いもスムーズではない事は確かでした。

 翌日、私は法を暗記しました。「真・善・忍という特性を持った宇宙空間は本源的に善良なものであり、人間も生まれた時は、宇宙と同じ特性を持っています。しかし、生命体が多くなると、その集団に社会的な関係ができてきます。その中の一部の者が、利己的になっていったために、次第に自分の次元を下げ、ついに自分のいる次元にいられなくなり、それより低い次元へ堕ちていきました。ところが、つぎの次元においても、まただんだん悪くなり、そこにもいられなくなって、下へ下へと堕ち、最後には人類という次元にまで堕ちて来たわけです。」(『轉法輪』)

 この段落の法まで暗記したとき、私には一つの疑問が生じました。「高次元の神仏はほしいものの全てを入手でき、自分の一念で一つの世界まで成し遂げることができ、彼らはきっと利益や財宝などを求めませんが、それなら彼らにはどんな私心が生まれるのでしょうか? 暫く考えて、私は分かりました。高次元の神仏の最初に生まれる私心は、恐らく自分の認識への執着です。「これが私は明白に見えた理ですので、絶対的で、他人の言い方は全て間違っている」と思うでしょう。この「自我に執着する」心が芽生え、私心ができていれば、生命が以前のように純粋でなりなく、以前より重くなり、高次元の法に符合しなくなり、下へと落ちていきます。下の次元へ行けばいくほど物質が重くなり、生命も迷いに深く埋もれます。人間の次元に到達した際、その私心は単に自我への執着に留まらず、ほぼ全てに対し執着を持つようになります。名、利、情、色、気...…そして嫉妬心、怨む心、顕示心、闘争心、歓喜心、求める心、恐れる心…人間は執着の中に埋もれているに等しいです。

 修煉者としては、これらの執着の中から這い出てこなくてはならず、それらの心の一つ一つを取り除いて初めて元へ戻れます。修煉の過程で、私は名利、情に対する認識がはっきりしていて、それらを取り除くよう努力していますが、しかし、根本にある「自我」への執着に対する認識がはっきりせず、自ら取り除こうともしていません。如何なることにおいても、私はいつも自分の認識が正しいと思い、自分の考えに符合しない見方などがあれば気にしてならず、どうしても口に出して、思案をめぐらして相手に変わってもらおうとします。しかし、どうしても相手を変えることが出来ないときにやっと、自分の方から「事を丸く治めるよう譲歩する」ことをし、しかも自分が「忍」しているから、自分が良く修めていると錯覚します。近年の説法の中で、師父は繰り返し同修間の協調を強調されていますが、私はずっとそれを重視せず、それが人間として生きる、または事をする範疇にあると思い、同修間の協調はイコール自我を放下し、私から、そして旧宇宙から出てくる一つの修煉の過程だとは認識できませんでした。

 この点が分かってから自分の以前の言動を振り返って見ると、恥ずかしくてなりません。私はいつも自分が見えた理で他人を測り、要求し、相手が話を聞いてくれないときにイライラし、トラブルを引き起すことまでは行かなくても、内心では不平不満に思い、時にはそれによって消極になって、修煉の方向さえ失ってしまうこともありました。実際、そのときは「自我を執着する」心を取り除くべき時でした。師父は『洪吟二』「阻む無し」の中でおっしゃいました。「修練は路同じからず、都(すべて)大法の中に在り」 修煉者は一人一人が自分の道を歩まなければならず、大法の中から各々が自分の理を悟らなければなりません。広大な大法の中での私の一見は海の水一滴に過ぎず、どうしてそれを持って他人を測れるのでしょうか。同修間の交流は必要ですが、しかし、その交流というのは互いに自分の認識を述べ、各々と自分に内に向けて探すべきであって、決して相互への叱責ではなく、自分の認識を持って他人を判断、要求することでもありません。大法修煉者としては、最も広い度量を持ち、衆生に寛容であり、万物に寛容であり、更に同修にも寛容であるはずです。

 ここまで思うと、私は徹底的に旧勢力を否定することに対する新たな認識が得られました。以前、私は同修の足りないところが見えたら焦り出し、心の中で思うのは、早くきちんと修めなければ、旧勢力に迫害されてしまいますよ! これは自分の認識を持って同修を判断し、同修に自分の認識水準に達するよう強要していることです。これは旧勢力が自分の按排に執着する事と同じではありませんか? 旧宇宙の理に沿って物事を考えた際、旧勢力の「よく修めなければ迫害に遭う」との理に賛同してしまうことになります。旧勢力の按排を徹底的に否定しようとするなら、旧宇宙の「私」から抜け出し、旧宇宙の理から抜け出し、新宇宙の生命が持つ大いなる慈悲心を修めなければなりません。

 師父は『轉法輪』の中でおっしゃいました。「あなたがどの道を歩むか、何を求めるか、何を欲しがるかについては、誰も干渉する人はおらず、ただ善をなすように勧めることしかできません。」これがこの宇宙の理です。他の生命を妨害せず、慈悲を持って他人に接し、純善の心構えで全ての物事に対処し、純善の心構えで同修を見ましょう。同修にはそれぞれ自分の歩むべき道があり、そこで私がすべきなのは、善意による指摘、正念による加持、旧勢力の一切の妨害を否定し、邪悪な要素による師父の安排への妨害及び、邪悪な要素による同修の修煉への妨害を断固として許さないことです。

 今は、同修に言われていた「牛の角先に向かって潜り込むこと」を再び思うと、心がすっかりと納得するようになりました。以前の私は確かに自分の認識に拘って中々人の話に耳を傾けず、近年ずっと精進できていないことにも、自我を放下できなかった部分の要素が多く影響しています。自分が自分の足を引っ張っていたのを今日になってやっと分かりました。師父の慈悲なるご教化に感謝致します!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/5/5/272914.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/5/31/140214.html)
 
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