師父の慈悲を大切に
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年6月4日】この数日、私は師父の評註文章及び明慧編集部の全ての文章をダウンロードし、じっくり読み通しました。読み終えた後、私は一つの重要な現象に気づきました。国内外問わず、長年来、なぜ法を乱すこと、安全問題を怠ること、資金を集めることなどの問題が頻発するのでしょうか? 法を乱すことや資金集めなどの問題に関して、明慧編集部は既に多くの文章を発表し、そのようなことをしてはいけないと明白に言い続けてきました。それでも何故、この類の事件が未だ多く発生しているのでしょうか?

 その原因を探ってみると、やはりそれらの同修は仕事をすることを修煉だと考え、修煉の本質や弟子としての本分を忘れてしまったためだと思います。

 例えば、「先知」と自称する人の法を乱す問題において、他のことはさて置き、ただ単にその名前からも高慢さ、尊大な意味合いが伺えます。常識から考えて、非常に能力のある人が他人から何と呼ばれようと、それは他人からの評価です。しかし自ら「先知」と自称するのは、お高くとまっている意味合いがあるだけではなく、更に身の程知らずの偏屈さ、そして、この名前自体、その自己中心の傾向性も伺えます。

 彼女の言論などを、私は一度読みました。しかも自分が担当するネット論壇で読んだのです。当時、彼女が発表した言論を読んだ第一印象としては、彼女の文章の行間に一種の薄暗くて不気味な物質がある感じでした。私はすぐに総責任者にそれを削除するよう提案しました(のちに、他の責任者に削除してもらい、彼女のアカウントも削除し、そして内部の共有ページではその理由も明記しました:理性ではないこと)。実際、削除作業を担当した責任者は私と同じく、見える状態で修煉していて、多くのことを知っているし、多くの文章も発表しました。

 なぜ、その「先知」の文章が私にそのような印象を与えたかと言うと、他はさておき、彼女の文章から読み取れる意味合いの殆どは、このようです。「あなた達は私の文章を掲載しなければならず、そうしなければ攻撃を受けることになります」また、他にも訳の分からないことが多く書かれていまして、一言で言えば、「あなた達は必ず私の言う通りにしなければなりません。」

 このように理性を失い、ごたごた言う人は人気を得るはずがありますか? 状況は一目瞭然です。

 修煉の初日から、人々は違う目的で修煉に入り、学法と心を修めることを通じて、多くの人は修煉の目的や修煉の原則が分かるようになりました。しかし一部の人は当初の熱心さによってここに入り、ここが通常の常人社会の環境に比べると純粋で居心地がよいから、つい留まりたくなります。後者の人たちは心の奥底から真に大法の要求に従い自分の心性を高め、法を広め衆生を救うことに全力を尽くそうと思っておらず、甚だしきに至っては着実な修煉や衆生救いのことをせずに高い次元へ昇華していく「近道」を妄想していると思います。

 宇宙の邪悪な生命は元々、これらの生命が法を得ることに対して不満に思っているため、彼らの楽な道を歩みたい執着を見ると、当然彼らに楽な道を安排し、こうして妨害を引き起こしているそれらのものに環境を提供してしまいました。

 師父は私達に厳粛に戒めていました。「「荒波は砂を洗う」という言葉がありますが、修煉はまさにそうで、最後に残ったものこそ真の黄金です。」[1] 考えてみて下さい。一人の人間が非常に苦難多き修煉の道を経ずに天に昇ることは可能でしょうか? もし可能なら、天上も混乱してしまうのではありませんか?

 ある日、ある同修は私に、数人の天目が開いた同修たちが思想業力に邪魔されている同修を助けるために何かをしようとしていると言いました。私はそれを聞き、反問しました。「彼女らはどうして自分が見えたものが真実だと分かりますか? まさかまたも、いわゆる師父の法身にそうするよう言われたのですか?」その同修は答えました。「当時、私も彼女らの話を疑問に思いました。師父の法に照らし合わせると、彼女らの話は法に沿っていません。彼女らはずっと一点だけを強調していました。自分達が見るとき何の念も動じていないから、それが真実だと言うのです」私はそれを聞いて、笑って言いました。「師父の経文、『精進要旨』「量る基準を再び論じる」をもう一度見てみましょう。師父はおっしゃいました。「人を量る基準は弟子の心性を見ることだと、わたしはずいぶん前から言っています。しかも、いかなる人であれ、悟りを開くことなく、圓満成就していない人には、わたしの弟子の本当の修煉の情況を決してはっきりと見せないのです。それらの見える人は、低い次元で彼の次元に顕現してあげた現象が見えただけで、さらに高い次元になると、彼には見えなくなります。」[2] 「皆さん、ご存知ですか? すべての空間は同時に、同じ所に存在しているため、いかなる空間の生物もみな、人体と重なる可能性があり、あたかも憑き物のようですが、同じ空間にはいないので、人間とは関わりがないのです。いわゆる天目の開いた人に、この複雑な情況が分かるのでしょうか?」[2] 師父の法はこのようにはっきりと書かれています。彼女らは文章の断片を取り出して解釈したのです」

 また、師父の法身に何をどうするかを教えられたとか、師父の海外からの伝言で何をどうするかを伝えられたとかを言う人たちもいますが、それ自体、師父を口実に自分を高め、あるいはそういうことで自分の正しさを証明したいだけではありませんか。師父は明白におっしゃいました。「ですから、自分は何が見えたのかを気にする必要がなく、私の法身、私の功身、高次元にある私の身体のどんな部分が見えたとしても、何かの心を生じさせてはいけません。これらは全て私の表面を主体として存在しているのです。私のここにある最も表面の人間の皮はこの上ない主体なのです。」[3] 「現在学習者に見えたもの、知っているものはその次元が限られています。旧勢力も神です。現在、それは皆さんが知っていることです。法を師にせず、心をこれらのものを見ることに使っていれば、それは意のままにあなたに如何なる虚像をも作り出します。」[3] 「法を師とするようにと皆さんに教えたことの理由の一つは、皆さんがこういう妨害を受けることを心配しているからです。法を師とするようにと教え、法がここにあるから、法に従って行い、正々堂々と修煉すればいいのです。この法がなければ、皆さん考えてみてください、皆さんに見えたそのわずかなもので修煉などできるのでしょうか? できないでしょう。どうして法の要求に従って行わないのでしょうか?」[3]

 多くの人は噂を伝えるのが好きで、これらのいわゆるニュースで自分を高めようとしています。この方面について、師父は既に『轉法輪』の中で私達に教えられました。「この本はもういかなる価値でも量れないものです。まだほかに何を求めようとするのですか。こういうことはすべてそういった心から出てきたものです。」[1] 「本当はどこの誰であろうと、法は一つしかなく、この大法に従っているかどうかが、本当の基準です。」[1]

 昔、香港で腐敗分子が出てきたとき、師父はそのために『妨害を排除せよ』を書かれました。この類の事がなぜ頻発するのですか? その表現の度合いに違いがあるものの、根本は同じです。つまり、師父を謗り、明慧ネットを謗り、自分を広く宣伝し、別の勢力グループを作ろうとしています。

 ここに来て、私は簡潔に私自身が経験した一つの機転の過程を言ってみたいと思います。

 私は小さい頃から天目が開いており、見えたり見えなかったりしていて、修煉後は天目がもっと大きく開かれ、直に他空間の雄壮で美しい光景が見えて、私の修煉の信念や決意が強められました。しかし若さ故に顕示心が強く、常人にあまり理解されない言動もありました。その後、私は徐々に自分を抑え、その心も少しずつ放下できる様になりました。

 正法時期の修煉に入ってから、私はよく功能の角度から文章を発表し、当地及び付近地区の同修達はよく私と交流をしに訪ねてきました。しかし後に、功能を用いて実行されたことの大多数は効果が余りよくなかったことが分かりました。その後私は気づいたのですが、法に沿っていなければ、いかなる向上の方式も根本から問題を解決してくれることはなく、却って多くの執着や人心を引き起こしてしまいます。

 この点が分かって以来、誰かが功能を用いて問題を解決してほしいと頼んでくる時、私はいつもキッパリと断るようになりました。そうしてから、楽な道を歩みたい同修達はもう私を訪ねてこなくなりました。同修が良いことにあったら必ず私に尋ねてきたのは、私にそのような顕示心があったからだと思います。もちろん、これらのことはもう4~5年前の話になります。

 その後、同修間の交流会がある際、私はいつも発言のチャンスを他の同修に譲り、最後に時間的余裕があるときだけ、私は法に沿って自分がどのように学法し、どのように内に向けて探し、家や仕事の環境の中でどのように行なってきたか、そして自分に足りないことは何なのかについて述べ、自分の見えたものとか、新奇なことなどについては一切触れないようにしました。同時に、同修たちの体験に真剣に耳を傾け、自分との差を見つけるようにしました。このようにして、同修にも自分にも、互いに促し、共に昇華できる過程となりました。そして修煉者はどの次元にいても、皆が平等だと思い、私は全ての同修に同じように接し、誰かと特別に親しくなったり、個人的な勢力グループを作るなどをしないようしました。自分はどうであれ、気取らず、人心を放下し、周囲の一切に謙遜をもって対応し、真に全体の大きな環境に溶け込むようにしました。

 長年の修煉を経てきて、私は功能を通じて見たのですが、完全に師父の要求に従い実行してきた同修は、彼(彼女)の空間場は光が一面に輝いています。しかし、自我に執着し、自分を強調し、自己流でやってきた同修達の空間場は黒く、甚だしきに至っては沢山の邪悪な生命がそこを占領し、彼らにもっと多くの仮相を見させています。法を乱すものの多くは、その元神が既に固く縛り上げられ、審判を待っていますが、表面空間では、彼らが堕落した神や卑しい鬼にコントロールされ、引き続き人を惑わしています。

 もちろん、真に法に沿って修煉している人でも多くの不足がありますが、それはごく正常なことです。法に沿って修煉する人は心性を修める事を重んじ、一挙一動、言動の一つ一つに大法弟子の風采を体現するようにしています。しかし、自我中心の人たちはこれらのことを気にせず、あるいは例えある方面で心性を重んじても、結局はそれが自分の何かを見せびらかすための手段に過ぎません。両者の違いは容易に見分けられます。

 総じて言えば、師父の話を聞き、全ての常人の執着や妨害を放下して初めて、真に修煉の道をより良く、平穏に歩めると思います。

 修煉は何かの事を行なうことではなく、何かに加勢することでもありません。それは慈悲で偉大なる師父が私達に天に上れるよう敷かれた道です。なぜ、私達はこの万古に得がたい機縁を大切にしないのですか?

 最後に、師父のお話を引用させて頂き、同修の皆さんと励まし合いたいと思います。「悪らつで破壊的な試験の中で現れるあらゆる問題について、前もってわたしはすべて説法の中で皆さんに教えています。真に着実に修めていない人には、なかなか乗り越えることができません。今になって、なぜわたしがいつも皆さんに本を多く読むようにと言っているのか、皆さんもよりはっきりと分かったでしょう! 法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです。」[4]

 同修の皆さん、一緒に師父の慈悲を大切にし、互いに気づかせる中で、私達は法を正す師に手伝う神の道をより良く歩んで行きましょう。

 個人的な意見ですが、ご参考になれば幸いです。不足する部分があれば慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「量る基準を再び論じる」
 [3] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年旧正月での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/3/26/271386.html)
 
関連文章