名を求める心に警戒しよう
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文/寧静

 【明慧日本2013年7月1日】名利心を修め、着実に修煉する過程で、遭遇した心性の関には、名利に触れないこと以外、名利のなかで、いかにしっかりと自分を制御するかの試練もありました。

 私が思うには、私のため、我のためを出発点とする場合、善の生命、正の生命であっても自我に執着する認識を形成しやすく、自我を実証しやすいです。自分の優位と長所を利用することも、自我の個性と特徴を現すことです。しかし往々にして、師父と大法を第一位にしておらず、なんということなしに法を乱す作用を働きやすいのです。

 最近、明慧編集部は『講演は法を乱す行為』について、提言しています。私も一部、普遍的な現象を目にしています。それは、互いに面識のある同修が一緒になっていることで、つまり異なる天体から縁を結んで一緒に降りてきた同修の場合、決まった人数ではないが、常に小グループを作っていることです。このような小グループを形成してから、常に口達者な人が1人いて、よく論じ、率先します。なんといっても、率先する人は組織能力が比較的に強い人です。もし率先している同修の言動が法に基づいていない場合、ほかの同修がその問題について指摘する場合があります。その結果、率先者の人心を刺激し、その人はメンツをなくします。一旦、指摘された同修の心性がよくない場合、最初の一念が本当に内に向けて探すことできなければ、その人の人心が優位に立ちます。そして、自覚してないうちに、彼に対する同修の信頼を利用し、同修を煽動して、自分を「打撃」した同修に対応し、人間のなかでの敵対者を排除する手段をとります。同修の資源を自分の「個人の財産」とみなし、学習者のなかで有名になり、個人の名声を争い、勢力を争うために「奮闘」する道具とします。表面的には仕事をして、成績を出していますが、自分を修めていません。

 そしてトラブルのなか、面識のある同修がみな相次いでやってきて、色々と話します。100人が100種類の自我の境地の認識を持っていて、交代で弁論します。話せば話すほど複雑になり、混乱して、誰が正しく、誰が正しくないのか、判断できなくなります。その時、最も根本的なことを忘れています。それは、「真・善・忍は良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」[1]ということです。誰かが最初から最後まで師父の教えてくださった基準に従って考え、ことをこなせば、その人こそ良い人であり、見かけは堂々としているように見えても、闘争をしたら、その人こそ悪い人です。しかし、多くの人はトラブルのなかに陥って、自分の所在する境地のあれらの認識と自分の知っている一方的な状況を用いて、師父の法で自分を照らし合わせず、自分が間違っているかを測りません。

 更に多くの同修は、トラブルに巻き込まれることを恐れて、自我を保護するため、声を出しません。例えば、少し話をするとしても、両方とも少なくしゃべるように要求します。まるで、トラブルの両側とも声を出さなければ、問題とトラブルは解決されるようです。私はこのような同修は、自分自身さえも、どうして自分がこのトラブルに遭遇したか分かっておらず、真・善・忍の法をもって測らず、円容しておらず、ただトラブルの両側とも声を出さない方法で問題を解決できるようです。

 このような状況に遭遇したとき、私個人の理解では、旧勢力が自己の境地で認識している法理をもって、宇宙を正そうとしているのと同じです。あれらは自分のやりたいことに執着し、師父を利用して、自分たちが執着することをやり遂げようとしています。完全に師父の指揮と按排に従おうとしません。師父は「旧勢力は、皆さんに教えますが、それらが皆各次元の最も優れた生命ですが」[2]と説かれました。「法を正すことを迫害することに参与したのは、旧勢力の一部分だけであって、このような生命は各次元の生命の20パーセントを占めています。その他の多くの生命は参与していません。参与していない生命は皆観察しており、この全てを見ています。」[3]人間社会で修煉する私たちも、このような体現があります。修煉者のなかで、少し有名であり、自我を実証することに執着し、師父と大法の基準とニーズを第一としないことがあります。

 本当に多くの方面において、着実に修めなければなりません。あれらの多くの空想の境地は、往々にして見かけは堂々としていますが、やり遂げられるかどうかはすべて問題です。着実に修煉しなければ、各種のいわゆる高くて深い理論をもって邪な悟りをすることは、みな非常に簡単なことです。一旦、自分の修煉の道を正しく歩まなければ、支払ったすべての努力は、かえって悪いことをしたことになります。

 修煉者の中で、名声と影響力が高ければ高いほど、自分の行為、すべての念の源に警戒し、まずは法をもって照らし合わせるべきです。師父は「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです」[4]と説かれました。名利を求める心は更に魔の障碍となります。私たちが時々刻々、冷静で理知を保てることを希望します。

 以上は個人の認識であり、正しくないところについては、慈悲なるご指摘を願います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年旧正月での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「定論」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/25/275774.html)
 
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