自己を放下して、大法の中に溶け込む(二)
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2013年12月1日】

 自己を放下する

 10数年の修煉過程を振り返ってみれば、怒りっぽい性格はずっと変りませんでした。そのような気性を好きなわけではありませんが、どうしても改めることができません。「あなたの前世は高官だったかもしれませんね! いつも官僚ヅラをしているけど」と同修に冗談を言われた時もあります。迫害が始まる前、地元で煉功を開始した当初、こんな出来事がありました。ある学習者がみんなの向く方向と違って、いつも横の壁に顔を向けて煉功しており、輔導員に注意されても聞きません。私はそれを知った後、わざわざその煉功場に行って、厳しい口調で彼に前方を向くように命じました。彼は「だるまでさえ9年間も面壁しましたよ」と言ったので、私の怒りは烈火のごとく盛り上がって、更に厳しい口調で「それならここを離れて、禅宗法門のところに行ってください」と叱責しました。それで、彼はやっと向きを変えて、みんなと同じように前方を向きました。当時、私が考えたことは、「大法のためです! 彼一人のために大法全体のイメージが破壊されるわけにはいきません」ということでした。しかし、もしも彼が私と同じ態度を取ったらきっと喧嘩になって、それではもっと大法のイメージを破壊することになったのではないか、もし彼が傷ついてそれから煉功場に来なくなったら、私は師父の弟子を追い払ったことになり、その損失はどれほど大きいか、私がどれほど大きな業力を作ったかを、当時は全然考えていませんでした。

 師父は『いかに輔導するか』の経文に「たとえば、学習者を輔導員に服従させるため、目的は仕事を行ないやすくするところにありますが、煉功点で命令式の方法で仕事を行なっています。これではいけません」とおっしゃいました。また『はっきりと目覚めよ』の経文に「わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです」とおっしゃいました。

 その日に学んだ『ロサンゼルス市法会での説法』の一段落は、私を目覚めさせました。自分の怒りがいったいどこから来たかを掘り下げたとき、最後にそれは「自我」に対する執着から来たことを発見しました。自己を誇示して、顕示心、口を修めない、勝手に他人を決め付ける、唯我独尊、他人はすべて私に従って協力しないといけないなどの一方で、私は他の人に協力していませんでした。真相を伝える時、よく厳しすぎて、優しくない、強引に自分の意見を相手に押し付け、甚だしきに至っては相手に抵抗する気持ちを起こさせて、逆効果になります。根気が良くなく、相手が真相を信じなければ私はすぐ諦めて口も聞きませんでした。相手の反応に失望すればすぐ真相を伝えることを中止して諦めました。何か問題に遭った時、自分をあまりにも高くみて、大法の基準さえ顧みずに、大法に背くことまでしてしまいました。「自己」は「私心」から生まれるもので、また共産党文化に毒害されており、壊れた道徳観念の影響もあります。

 無私無我になって他人を優先することを、大法は我々に要求しています。自我を強調することは「私」と「我」を守るためで、大法と背離し、真・善・忍の特性と背離します。修煉者が自我を放下できないと、宇宙の特性に制約されて、心性も昇華できないし、功も伸びません。

 私は自分の至らないところが見つかり、心性が高まったので、問題も当然すらすらと解決しました。私とAさんは心の扉を開いて交流し、長年の誤解が解けて、私たちを隔てていた物質を解体しました。

 私と同じように執着している同修よ、早くその自我を放下しましょう! 一緒に精進して三つのことをしっかりと行って、より多くの衆生を救って、誓約を果たしましょう。

 (完)

 
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/5/276240.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/7/21/141157.html)
 
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