人間から神へ向かう時遭遇する関
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年11月6日】男性と女性では情に対する執着が違います。男性は、色欲への執着が割合大きく、修煉を台無しにする危険性を認識しなければ、なかなか取り除くことは難しいのです。女性の場合は、色欲への執着よりも精神的に独立できないため、人に頼リたがるのです。女性が情を取り除くためには、感情への幻想を見極める必要があります。

 情は元々、私(し)のためのもので、頼リにならず常に変化するものです。場合によっては、人を傷つけたりします。人間関係は業力によって按排されているので借りがあれば返さなければならず、恩があれば報わなければならず、望み通りにはなりません。修煉者は情に惑わされてはいけません。

 昔の人は修煉したければ、まず出家して世間との縁を切らなければなリませんでした。まず最初に「情」を断ち切るのです。それに加えて、「色欲」も断ち切らなければなりません。「自我」も放下しなければなりません。そうでなければ、心から魔が生じて、修煉を台無しにしてしまう可能性があります。

 修煉者は世間の中で修煉していますので、あまり規制がないようにみえますが、修煉の基準は実は、もっともっと高いのです。心が動じることは、すでに執着し始めていることで、直ちに三界の応報に遭い、三界の法の制約を受けることになるので、心身ともに苦痛に遭います。「情」から抜け出せない時、往々にして思想業と魔の妨害以外に、自分を常人と見なし、修煉者であることを忘れてしまったことが一番の原因です。

 「肉親への情」は、最も乗り越えにくい関の一つです。人は生まれてから、親の愛情に包まれて育てられたからです。しかし、成長するにつれ、因果応報が次第に現れてきますので、親子の間でも、愛や恨みを生じたりします。いかに、「肉親への情」を突破し、家族を済度できるのか? 修煉者の一人一人が直面しなければならない問題の一つです。私の場合、師父は父親であり、先生であり、この世界で一番尊敬する親しい人でもあります。家族は修煉していないので、私が救い済度する衆生です。もし修煉すれば同修になります。この関係を正しく対処できれば、肉親の関を乗り越えることができます。

 私は独身です。親は最初から私が結婚しないことを理解できず、圧力をかけて結婚させようとしました。私は悩んだ末に、理性を持って「私がもし佛教で修煉するなら出家して、あなたたちとの縁を断たなければなりません。しかし、法輪大法は世間で修煉できるので、修煉しながら、あなたたちの世話をし親孝行もできます。これは大法の恩恵です。親はだれでも子供に幸せになってほしいと望むことは私も分かっています。しかし、私の最大の幸せは結婚ではなく、大法を修煉することです」と両親に伝えてからは、私に結婚話をしなくなりました。

 「情」への執着は修煉が向上するにつれ、だんだん淡泊になりました。しかし、「自我」を実証する執着が現れました。師父の説法は、他人を優先する前に、無私無我を説かれました。自我を放下できなければ、他人を優先することができないからだと私は理解しました。

 旧勢力が法を正すことを妨害し、私たちに魔難を加えるのも、まさに自我に執着し、自分の認識を放下できないからです。私たちも自我を放下できなければ、旧宇宙の理から抜け出すことができません。甚だしい場合は、心から魔が生じてしまう可能性もあります。

 私は自我に執着する心がとても強く、なかなか取り除くことができませんでした。最近になって、ある同修と交流した時、自分のある間違った認識に気づきました。それは強気を正念と見なしていたことです。「正念」は神の念、慈悲の現れです。それに対して、「強気」は、攻撃的で、人を指摘したり、批判したりする魔性の現れです。これを正しく認識してから、独りよがりの心が解体され、自我に執着する心もなくなりました。

 自分が情を求める目的は何なのかについて探してみました。それは、相手を支配したいという欲望から生じたことに気づきました。つまり自分が相手に好かれているかどうかを証明したいのです。このような場合、支配欲が一旦満足されると、相手への興味もなくなります。その危険性を認識できれば、相手への「情」も素早く断ち切ることができます。

 しかし、情の源が自我の満足にある場合、自我を先に取り除かなければ、情への執着も取り除かれません。ほかに、自分の感情が傷つけられた時、相手への感情よりプライベートが傷つけられた場合も、自我に執着しているのです。

 高次元の修煉は無為を重んじます。世間のすべてが因果応報により按排され、人の一生も神に按排されたものです。関にぶつかった時、自分を制御できなければ、神の按排を破壊しかねません。それによって、自分の修煉に魔難を招くことになります。

 師父は『シンガポール法会での説法』の中で、「誰でも何かのことに出会った時いつでも外へ向かって探します。『あなたはなぜわたしにこのようなことをしたのか?』  心の中に不平を抱き、自分の問題を考えません。これは全ての生命にとって、一つの最大かつ致命的な障害です。いままで修煉しても向上できない、どうやって修煉して向上できるのかと悩んでいる人がいました。誰にしてもトラブルに遭遇する時自分のことについて反省しないことが最大の妨げなのです。自分が苦痛を受け、たいへん不幸な目にあったのに、さらに自ら反省して、自分のどこが間違っていたのかを探す、そこまでできるのは本当に難しいことです。誰かがそこまでできたら、この道、この修煉の道において、そしてあなたの永遠の生命において、あなたを妨げるものはありません。これは本当のことです」と説かれました。

 私たちは苦痛の中で、内に向けて探すことができれば、師父は私たちの魔性を消滅してくださるのです。

 観念の問題

 何を食べ何を飲めば健康になるのか? 冷え性などへの固定観念などは小さな事ですが、とても頑固です。これらの観念があれば、自分を修煉者と見なしていないことになります。私たちの功の中に、宇宙のすべての物質元素が含まれているのに、まだ何が足りないと言うのですか? 足りないのは心性が基準にまだ到達していないのです。 自分の考えや言動が、大法に符合しているかどうか、修煉者として修煉の間ずっと考えなければならないことです!

 もう一つは、他人に認めてもらいたいという「観念」です。自分が他人と是非を言い争っている時、自分が正しいことを証明したい時、つまり「名」を求めているのではありませんか? 常人が私たちを認める時、往々にして私たちが言ったことが彼らの観念に符合すれば、彼らは認めるのです。彼らが認めているのは観念で、私たちではありません。同修が私たちを認める時は、私たちが法に符合したからで、認めているのは大法で、私たちではありません。一方、人間は表面を認められることが、それほど大事なのでしょうか? 私たちがこの世にやって来た目的は、使命を果たすためで、「名」を求めて何の役に立つでしょうか? せいぜい常人の中の顕示に過ぎないのに、「名」を求めれば執着心を助長して、自分の修煉を妨げてしまいます。

 法を正すことの進展の過程での修煉は、師父の要求によって変化します。法を正す進展について来られるかどうかは、つまり師父の要求を理解できるかどうかです。現在、世界中で江沢民を告訴していることもそうです。「法を正す中で一つの理があります。つまり、私がどのように処理しても、それが正しいということです。『私がどのように処理してもそれが正しいことであり、処理されたものは皆間違っているものである』という師父のこの話を皆さんは覚えておいてください。(拍手) それは宇宙の選択であり、未来の選択だからです」(『二〇〇三年元宵節での説法』)と師父は説かれました

 以上は個人の悟りです。不足があればご指摘をお願いします!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/14/317551.html)
 
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