出発点
■ 印刷版
 

 【明慧日本2015年2月25日】時期ごとに、異なる地区で、異なる人が幾らかの情況を表しています。これらの情況の出現は、学習者や大法弟子が弁別を経験することによって、法の中で修めることを学び、事が起きた際、修煉を出発点とすることを学び、大法に同化し、もっと多くの衆生を救うことにあって、人心を増長させ、常に人心に左右されるためではありません。

 しかし、中国大陸という特殊な環境の中で、常に幾らかの人が、修煉を第一とせず、衆生を救うことを着実に行わず、人心を出発点としています。中には、自我を膨張させ、自分の心より魔が生じている人、他人を祭り上げ、その人を魔に成させていることすら知らない人、名利や色欲心に駆られ、道徳の最低基準を失い、それでも人に褒め称えられて有頂天になっている人、どうしても人為的に、軽々しくある種の情勢を作り出し、それによって功名を手に入れ、ウキウキしているが、中国大陸の環境及び中国大陸の大法弟子に与える修煉と衆生を救い済度するその特定の環境を含め、すべてが神様や天に定められるものであり、師父に主管されていることを忘れた人等々がいます。

 一部の中国大陸の大法弟子は海外に出て行けばどうかなどを考え、海外で本を出版するなどを考えています。法を正す按排は人心をもって理解できるものではありません。例えば、中国大陸の大法弟子による海外での本の出版禁止は、大陸の大法弟子は大陸の環境や条件下で着実に修煉し、誓約を果たし、初めて成就すべきものを成就できるからです。海外の情況には別の按排があります。

 師父は『法輪大法義解』の中でおっしゃいました。「修煉はまさに荒波は砂を洗うように、砂をすべてふるい落としたあと、残ったものこそ真の黄金です。どれぐらい黄金が残るか、それは皆さんが如何に修めるかによるのです。」 ここで、もし私たちは修煉環境を熔炉に例えれば、黄金や砂が混ざる状況下で、黄金が精錬され、砂も精錬されているので、精錬の炎を通ったものの全てが黄金とは言えません。

 例えば瀋陽の李旭鵬、彼が起こした作用は魔と同じです。それでも各地で多くの学習者が彼を褒め称えています。李旭鵬にとって、今からすぐに心を入れ替えれば、まだ修煉や補うチャンスがありますが、そうでなければ、その後の結果は痛ましく、背負い難いものになります。これによって巻き込まれた学習者たちは、なぜ十数年の試練を経験しても、いまだ識別できないのでしょうか? 事が起きた時、自分の出発点は衆生を救うことにあるのか、あるいは個人の私欲、人心にあるのでしょうか? 毎回の撹乱を前に、あなたは一体どのような役を演じていたのでしょうか?

 法を正すために残されている時間は決して安逸や人心の為ではありません。どうか皆さん、頭脳を明晰にし、真に大法を心の最も重要な位置に置いて自分の言動を律し、初めて人間社会で真善忍の威力を実証できます。

明慧編集部    
2015年2月17日   

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/2/17/304903.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/2/18/148609.html)
 
関連文章