最近の中国共産党のネット封鎖から考えたこと
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文/同真

 【明慧日本2015年1月22日】昨年12月31日から今年1月5日までの6日間、明慧ネットにアクセスできたのは、僅か1日だけでした。他の5日間は、封鎖を突破するソフトウェア「自由の門」、「逍遥游」、「動態ネット」また「無境界サーフ」のいずれを使っても、明慧にアクセスできず、甚だしきに至っては、最も新しくダウンロードした「自由の門5・2」ですら、サーバーに接続できませんでした。周りの同修に聞いても、ほとんどの人が同じ状況でした。

 1999年7.20に法輪大法が迫害されてから、中国共産党は大量の人力、財力を投入してネット封鎖をしてきましたが、すべて成功しませんでした。迫害がもっとも激しかった2001年、2002年でさえも、明慧ネットは封鎖されることはありませんでした。しかし、法を正すことが今日まで至って、中国共産党はなぜこれほど狂気じみたネット封鎖ができたのでしょうか?

 人的側面から見れば、それは、薄煕来陣営の孫春蘭が統一戦線部部長に就任して、海外に対して力を入れた結果だと考えられますが、一方、大法弟子の修煉の角度から見れば、このような事は決して偶然ではなく、必ず私達自身に原因があります。

 思えば、迫害が最も激しかった時、明慧ネットにアクセスできる同修は決して多くなく、当時たくさんの資料拠点でさえネットにアクセスできず、ほとんどの拠点は、北京から送られてきた明慧ネットからダウンロードしたフロッピィーディスクで資料を作っていました。その当時、同修達はこの貴重な資料をとても大事にしていました。

 しかし現在、大法弟子が開発した封鎖を突破するソフトにより、多くの同修は明慧ネットにアクセスできるようになり、家庭の資料拠点も至る所にでき、ネットにアクセスすることもそう困難ではなくなりました。しかし、多くの同修は明慧ネットの内容に対して以前のように大事にしなくなり、動態ネットにアクセスしても、優先して明慧ネットを見るのではなく、それどころか、大量の時間を費やして、動態ネットで常人のニュースを見ているのです。

 大法弟子全体のこのような心理状態が、今回のネット封鎖を引き起こした根本的な要因だと私は考えています。今回のことは、当時、多くの大法弟子が大法の書籍を大切にしなかったことを理由に、旧勢力が共産党を操って、大法の書籍を破壊し、大法の書籍を容易に入手できないようにした手法と同じです。

 私達が今、明慧ネットにアクセスできるようになったのは、大法弟子が多大な努力を払い、多くの大法資源を投じたことにより得られたのです。それは、私達にもっとよく修煉させ、もっとよく法を実証させるためであって、決して大量の時間を費やして、常人のニュースを読ませるためではありません(真相を伝えるためにネット上で常人のニュースを読むことは除く)。人心を抱いて、動態ネットで常人のニュースを見るのは、常人のものに執着することと何の違いもありません。大法弟子が運営しているウェブサイトを見ているとは言え、しかし、その出発点が修煉と法を実証するためでなければ、それは人心を膨張させ、法を正す時期に私達に与えられた大切な時間を浪費していることになります。

 その他、大法弟子が時間と労力を費やして取り付けた新唐人テレビも、真相を伝え、人を救うためのものです。多くの大法弟子は新唐人テレビが放送している様々な常人の番組やドラマに執着し、多くの時間を使ってこれらのものを見ています。これも、大量の時間を使って動態ネットを見るのと同じです。

 師父は私達に「初心を忘れずに修煉」[1]するという法理を何度も説かれましたが、私達はどうして「初心を忘れずに修煉」することに到達できないのでしょうか? 私の理解では、私達は法を得た当時のように大法を大切にし、修煉の機縁を大切にしなくなったからではないかと思います。環境は比較的穏やかになり、1人が1冊の本を持つようになりましたが、しかし、精進しなくなり、人心も多く現れるようになりました。

 私が不当に刑務所に拘禁され、迫害を受けた当時、5年以上、大法の資料に触れることはありませんでした。その後、同修から電子書籍をいただき、『轉法輪』と十数冊の「各地での説法」を月に十数回読みました。刑務所のような邪悪な環境の中で、大法の書籍が入手できたことはあまりにも幸運なことで、私は、1分1秒を惜しんで、法を学びました。電子書籍を持っていない他の同修は、手書きの経文を宝物にしていました。

 今、ゆったりとした環境に戻って来て、すべての大法書籍や資料が揃うようになりました。しかし、かえって大切にしなくなり、怠けて、甚だしきに至っては感覚が麻痺してしまいました。振り返ってみると、私が最も多く法を学んだのは、なんと刑務所で、不当に拘禁された最後の2年間(2009年、2010年)でした。その2年間、私は216回『轉法輪』を読み、1千回以上各地での説法を学びました。しかし、ゆったりした環境の中では、そのような熱意はなくなりました。本当に自分の修煉をじっくり考えなければなりません。

 どうしてそんなに困難な状況に陥って、初めてその大切さが分かるのでしょうか? どうして、いつも「初心を忘れずに修煉」する熱意を保つことができないのでしょうか。今日、私はついにその理由が分かりました。それは、私達が常に変わることなく、大法を大切にしていないからです。そのために、私達は持続的に来る日も来る日も、初心を忘れずに修煉することができなくなりました。私達は常に変わることなく大法を大切にし、自分が歩んで来た道を大切にし、邪悪に乗じられないよう、どんな隙も決して与えないようにすべきです。

 わずかな悟りです。適当でない所があれば、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/1/9/302939.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/1/18/148011.html)
 
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