文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年6月7日】私には恐怖心があり、めったに法輪功に対する迫害の記事を読みません。最近、いくつかの迫害の記事を読んでから、その恐ろしさに驚き、心が重くなり、身体の調子が悪くなったような気がします。その恐怖心がまた出てきたのです。
その恐怖心があるために、私は中国共産党の解体を強く望んでいました。しかし、まだ多くの衆生は法輪功の実態を知り、救い済度を待ち望んでおり、私たち大法弟子を必要としています。師父が衆生と私たちのために巨大な犠牲を払って時間を延長してくださっていることを思うと、ここで共産党が突然解体してしまうと、救われていない衆生はどうなりますか? まだ良く修めていない大法弟子はどうなりますか?
以前、集団学法の時、または同修と接する際に、私にはいつも劣等感があり、「恥ずかしい」を口癖のように言っていました。真に大法に照らし合わせて、自分の不足に気づいてから言うのであればまだ良いのです。しかし、「恥ずかしい」という言葉と、謙虚さの現れとは似て非なるもので、私の姿勢は実質、人に触れてほしくない心をごまかしていたのです。
それは恐怖心です。そこには二つの意味が含まれています。一つは、迫害に対する恐怖です。もう一つは、師父の説法を学び、多くの法理が分かったからです。大法弟子として、衆生を救い済度しなければ修煉していないことに等しく、家でいくら学法や煉功をしても、修煉していないことになります。師父はこのようにおっしゃっています。「大法弟子には責任があるもので、何があってもこの世に来た時の誓願を果たさなければならず、あなたは当初、神の命と引き換えに、今日この宇宙での最も偉大な生命である大法弟子になれたのです」[1]。また、師父はこのようにもおっしゃっています。「自分が神と交わした誓約を果たさなければ、結末はあなたが誓約の中ですでに決めたのです」[2]
師父はまた次のように、私たちを戒めておられます。「人間よ、ある生命が歴史の今日に法を得ることができるのは、普通のことではないのです。あまりに幸運なことなのです! しかし、一旦これを失ってしまえば、何に直面するのかをご存知でしょうか? それは非常に恐ろしいことです。なぜならば、その人に賦与したそれほど大きな責任と巨大な使命をまっとうすることができなければ、相対的に言えば、生命の圓満成就と反比例を成しているのです。その生命は本当に二度と生きることのできない門に入ってしまいます」[3]
師父の警告は私にとって鉄槌で一撃されたかのようでした。億万年待ち望んでやっと得た大法の修煉、この修煉の機縁を失うことへの恐怖が私の二つ目の恐怖でした。この二つの恐怖心がからみ合って、私はとても長い間葛藤していました。なぜこんなに恐れるのだろうかと自問しました。これは単なる恐怖心の問題ではなく、深く掘り下げるべきだと思いました。
迫害による圧力と恐怖を感じて、迫害の停止を渇望し、恐怖心が生じることは自然かもしれません。しかし、深く掘り下げていくと、この恐怖の中には、変異した中国共産党文化により引き起こされた恐怖の記憶があり、人を恐れさせる要因であることが分かりました。犠牲を払いたくなく、耐えたくなく、根源はやはり「私心」が重いのです。
旧宇宙の属性は利己的です。利己的な考え、私利、私欲、私情、これらの「私」を放下しなければずっとつきまとわれます。これらをすべて放下し、そうして、新宇宙の中で大法の修煉をします。
実は、私の本性の一面は自分が成就できることを心から願っています。恐怖心や私心を取り除くため、私はこのように考えてみました。私は一つの世界、ひいては一つの宇宙、一つの天体を代表し、そこにいる無数の衆生を救う責任を担っています。あの数えきれないほどの衆生はすべて私が成就し、それによって救われることを期待しています。このような巨大な数えきれないほどの衆生の未来の存亡に直面して、それでも私はまだ恐れを感じますか? 自分は巨大であり、巨大な使命を果たすべく能力や知恵は備えられていると思うべきです。
人間社会で、特に迫害が続いている中で、1人で夜空を仰ぐ時、私は孤独感を覚えることがあります。しかし、私が代表する宇宙の衆生も皆、私を注視し続けています。それでも私は孤独でしょうか? 衆生のため、自我を放下し、恐れてはいけません。このように正念が強くなったとき、その恐怖の物質も消えつつあります。
大法を修煉することができ、それは本当にこの上ない幸運なことです。無条件に大法に同化し、師父が求められていることに円融し、貴重な時間を大切にして、毎日怠けず迷わず、自分をよく修めていくべきです。
遙か遠い昔、旧勢力が私の生命に良くない要素を按排していたことに気付きました。おそらくそれは自分の業力と関係があるに違いありません。大法を修煉する今生において、私はその恐怖の要素に特に敏感です。幼いころから、あれこれを恐れ、とても弱々しく、臆病でした。しかし、旧勢力の一切の按排を否定し、正念を強固にしなければなりません。法を学ぶ以外に近道はなく、私は時間を惜しんで法をよく学び、法を多く学び、大法の法理に則ってやるべきことをしていこうと思います。
以上は私が認識したことですが、次元には限りがあります。誤りがあればご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「ヨーロッパ法会へ」
[2] 李洪志師父の経文:『二〇一三年米国西部国際法会での説法』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」