文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年8月30日】これまで、たまに明慧ネットで当地の同修が発表した「個人的な問題」についての文章を見かけます。例えば、スマートフォンや携帯電話の安全性の問題、師父の説法を乱して話す人のこと、発正念の時に別の言葉を入れること、同修たちを相手に線香を売りさばくこと、師父のお帰りを歓迎するために横断幕や煉功の衣装を作ること、天目が開くことに執着することなど、様々な問題についての交流文章があります。個人的には、これらの問題に対して指摘すべきです。もし、誰も言わなければ、きっとこのまま発展し続けていき、いずれ、全体にも、個人の修煉にも大きな損失をもたらすことになるでしょう。
多くの同修はこのような文章を読んだ後、内に向けて自分自身を探し、言うべきこととそうでないことを法により自らを律すことができます。しかし、一部の同修は、人心で対処し、文句を言ったり、愚痴をこぼしたり、恥をかいたと思って「誰がこの文章を書いたのか知っているか?」と同修の間で投稿者を探したり、さらには、集団学法の時でもあれこれ言ったりなど、まるで文章を書いた人を罪人扱いしています。
しかしながら、修煉者としては、他人に自分の足りない部分を指摘されれば、喜んで対処し、正すべきです。常人社会にも「謙虚に人の意見を受け入れる」という言葉があるのに、私たちはまだ常人にも及ばないのでしょうか? 修煉者なら常人よりも高い次元にいて、なおさら他人の意見を聞かなければなりません。たとえ、賛同しないとしても無条件で内に向けて自分自身を探し、もし、不十分なところがあれば直ちに改めるべきで、ないとしても注意しなければなりません。
修煉には偶然なことは存在しないのですから。意見を言われて不満を感じること自体が問題です。このような不服や怨恨の心は旧宇宙の特性であり、取り除かなければ新宇宙の生命の基準を満たさないということです。真の修煉者としては他人に問題を指摘されることを望むべきで、決して外に押し返してはなりません。
先日、天目が開いた同修の写真と師父の法像を共に並べて線香をあげた問題について、師父は説法の中で「これらのことに執着している人がいれば、このような法を乱す人が現れてきます」[1]と説かれています。これは当地域でとても大きな騒ぎを引き起こしました。「誰が書いたの?」とあちこち聞く同修が多くおり、同時にまた「天目を開いた同修って誰のこと? 誰が線香をあげたの?」と調べる同修もいます。さらには、「大したことじゃないのに、師父の所にまで伝わってたなんて」と文句を言う同修も出てきました。
大法弟子として、師父のひと言、説法の全てに対して、敬う心を抱き、厳粛な態度で法を学ばなければなりません。師父が説かれているのは宇宙の大法であり、当地域のことについて説かれていても、その法理の内包は尽きることはありません。我々がしっかりできていないので、師父が説法され、師父にご心配をおかけして、慙愧に堪えません。直ちに自らを改めるべきなのに、かえって人心をもって他人のことをとやかく言っています。このような時こそ、相手に感謝すべきではないでしょうか?!
これは私の浅い認識ですが、同修の皆さんのご参考になれば幸いです。誤りがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1]李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』