文/唐山市の大法弟子
【明慧日本2012年3月6日】最近、同修の間での交流により、次の現象があったと分かりました。一部の同修はほぼ『明慧週刊』を読まず、家出をして家のことを構わず、甚だしきは、家族は彼らが何をしているのかさえ知りません。中に、子供を家に残している人もいて、ご家族やご主人は理解できず、大法と師父に無礼な話をしたりしました。このような人たちは一緒に住んでいて、「心を静めて学法」すると言って他の人にも勧めています。同修からどこにいるのかと聞かれても教えないようです。一緒に行きたい同修がいれば、「心を静めて学法」する場所に連れて行きます。このような人は時には十数名、時には二、三人で、唐山市の各県区内で同修を探して個別に交流をしています(他のところにも行っているそうです)。この人たちは皆、大きいバッグを背負って、中に師父の全ての説法を詰め込み、本の中には附箋(ふせん)をいっぱい挟んでいます。附箋によって、特定の箇所を探し出して同修にその部分を読み上げて説得するのに使っています。時には自分の理解で大法を解釈したりもしています。他の同修に指摘されて、これは一種の執着心であり、大法にふさわしくないと言われても内に向けて探さず、指摘した人が本を持っていないので学法が足りないと反論します。実際のところ、これは一種の顕示心理であり、他の人に学法の量の多さをいつも見せているのです。
同修が、今は人を救うことが緊迫していると交流しても、彼らは「自分自身さえしっかり修めておらず、慈悲心が出ていないのにどうやって人を救うのか?」と言います。彼らはまず静かに学法して、しっかり修煉できてから初めて人を救うと解釈しています。他の同修が、彼らに「人を救っていますか?」と聞くと、彼らは「その他に信仰を持っている人だけを救い、他のすべての衆生を救うつもりはない」と答えました。彼らは自らの次元と法理に対する認識に基づいて、もっぱら人の良くない部分を見て、同修の非を探しています。しかも他の同修にも、他人の不足を探しなさいと勧めています。また、時に彼らが家を離れて「心を静めて学法」している時、同修が、これらのやり方は大法修煉にふさわしくないと指摘すると、彼らはそれを認めず、「将来円満成就して師父について行く時もあなたは家族から離れないのですか?」などと反論します。
一部の同修はこの人たちについて行かないまでも、彼らの行いを認めていますし、心が動じているのも事実です。同修たちよ、なぜ師父の法と照らし合わせて見ないのでしょうか。人の振る舞いを学ぶのではなく、法を学ぶべきです。師父は、三つのことを同時にすると要求されておられ、それなら私たちは従えばよいのです。師父に言われていないことを、決して勝手に考え出してはいけません。
師父は最大限に常人の状態に符合して修煉し、俗世間を離脱しない、直接人心を指して修煉すると教えておられます。何回もの説法の中で何度も、多く人を救い、今は邪悪が人を壊滅させ奪おうとする時期だと啓示されているので、家出をして「心を静めて学法」することは正しいでしょうか。
「ですから、今回の衆生に対する迫害の中で、私たちは人々に真相を伝え、同時に自分を良く修め、正念の中で邪悪を根絶すべきです」(『北米での巡回説法』)師父は心を静めて学法せよと仰いましたが、それは家出をしてどこか静かなところで学法するということではありません。彼らの行いを認めている人は、彼らの話が自分のまだ修めていない人心に符合したのではありませんか。もし私たちがみな家を捨てていれば、出家した和尚や尼僧と同じではありませんか。それならば大法へ泥を塗ることになりませんか。
「大法の進展が新しい段階に入るたびに、人心で大法の修煉を量ってしまう学習者がいます。大法弟子の修煉の道はほかでもなく、世俗を離れず修煉することであり、ほかでもなくこの道なのです」(『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』)「着実に自分を修めるとき、あなたが接触している社会はつまり、あなたの修煉環境なのです。あなたが接触する職場の環境、家庭の環境はいずれも、あなたの修煉環境であり、あなたが歩まなければならない道であり、必ず対処し、しかも正しく対処しなければならないことで、どのこともいい加減にしてはいけません」(『二〇〇六年カナダ法会での説法』)「皆さんに教えたのはどこにいても良い人になり、人々にこれが大法弟子だと言われるようにすべきだということです。家庭のこと、仕事環境の中のことに正しく対処すべきです。大法弟子として、あなたの修煉のいかんが世の人々の前でまさにこういうところに現れています」(『二〇〇四年米国西部法会での説法』)
「心を静めて学法」するというのは、形式上で何も構わずにもっぱら学法することではないと私は思います。いかなる環境の中にも清浄心をもって、執着心をなくして、定になれるほどの状態で学法することです。執着心を無くして初めて無為になります。「定力の深さは次元の現われです」(『転法輪』)いかなる環境の中でも常人のことに左右されず、妨害されないようになって初めて、心を静めて法を学ぶことができます。
この文を書くことで、家出をしている同修達は早めに家に帰って欲しいです。自分の環境の中で三つのことをして、あなたに期待している衆生を済度して欲しいです。