文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年1月30日】先日、私は同修・甲さんから、年配の同修・乙さんが長い間、病業状態に陥っていることを聞きました。甲さんは乙さんを自宅に迎えて、しばらく一緒にいましたが、数日経っても状況は好転せず、乙さんは帰って行きました。ですから、しばらくしたら、また乙さんの様子を見る必要がありました。
昨日、同修・丁さんが電話をかけてきて、「一緒に乙さんの見舞いに行きませんか」と私を誘いました。ちょっとためらいましたが、やはり同修のことを自分のこととして対処しなければなりません。そこで夜、私たちは7人で一緒に乙さんの家に行きました。
甲さんは『2010年ニューヨーク法会での説法』を持って行きました。皆で乙さんの病業について一緒に交流し、私は師父の説法の病業の部分を大きな声で乙さんに読んであげました。その時、丁さんが他の同修と小さい声で何か話していました。私が読み終わった後に、丁さんは「皆帰りましょう」と提案しました。私には丁さんの先ほどの話は聞こえませんでしたが、多分何かに気付き、そこで皆と一緒に帰ろうと言ったのだと思いました。
帰る途中、丁さんは先ほど気付いたことを話し始めました。「私たちのやり方が間違っていました。私たちは同修の向上を助けようとしましたが、私たちに何ができますか? すべては師父がなされているのであり、すべて法の力なのです。私たちが同修を助けるという考え自体が間違っていました」私もやっと気づきました。同修・乙さんの家にいた時、「内に向けて探す」という念が一瞬、脳裏をよぎりましたが、具体的に何を探し、どのように探すのか、奥深く探しませんでした。以前から、私たちは内に向けてしっかり探していなかったのです。
同修・甲さんの家に着いてから、私たちは皆で交流しました。皆で乙さんが病業に陥ってからの各自の考えを話し、内に向けて探しました。乙さんがもしこの病業の関を乗り越えられなければ、きっと親族や同村の人に悪い印象が残り、大法に影響を与える(潜在意識の中に同修が亡くなる恐れがある)という考えがありました。ある同修は、乙さんは今どうしているのか、どう思っているのか、師と法を信じているのかなどと考えたり、ある同修は乙さんの病状を見てから、「これではダメでしょう」と思ったりしていました。また、私はもともと乙さんの見舞いに行きたくなかったのはなぜかを考えてみると、自分の観念に合っていなかったからでした。それぞれが皆マイナスの考えばかりをしていました。私も経文を読んだ時、心の中で「乙さん、ちゃんと聞いて。先生は、これが仮相だとはっきり説かれているでしょう」と、指摘する気持ちもありました。自分自身の学法にもならず、乙さんの心にも触れていないようで、あまり意味がなかったようです。そして、私は一方的に同修のことばかりを探し、自分の内に向けて探していませんでした。
そこで、私は言いました。「私たちは乙さんのために正しい念をもっていませんでした。私たちは乙さんに師と法を信じるようにと言いましたが、実際のところ、私たち自身が本当に師と法を信じていれば、乙さんの病業に対して怖がることはないはずです。かえって、乙さんに対して話したことを自分自身に向けて当てはめてみればいいのです。私たちは一つの全体なので、この一念を発して、初めて乙さんと通じることができるのです。私たち皆が大丈夫だと固く信じ、この一念が強大なエネルギー場を形成し、同時に乙さんにも影響し、そしてやっと私たちは本当に師と法を信じていると言えます」さらに「同修のことを自分のことにする」、このことは実は間違いです。「どんなことでも自分のこと」であり、同修のことは本当に自分のことそのものなのです。同修に病業が現われました。私たちはまず師と法を信じます。すべて師父が按排されたことであり、何事も起こるはずはありません。そしてやっと本当に法の上で、同修と通じ合う一つの全体を形成するのです。自分がその中に入っていないという考えはよくありません。
師父は「ご存知のように、修煉の中で意識的に何かを考えなくても、考えの中から自ずと良くない念が現れてきます。なぜでしょうか? こういうものが存在しているからではありませんか? いかなるトラブルと出来事が現れても、皆さんに教えたことがありますが、トラブルの当事者双方が自分の原因を探す以外、第三者まで自分を考えなければなりません。なぜ自分はこのことに出くわしたのでしょうか? ましてやトラブルの当事者の一人であり、なぜ自分を修めないのでしょうか?」(『二〇〇四年シカゴ法会での説法』)とおっしゃいました。
先ほど私たちが乙さんの家に行った時、乙さんはベッドの上に座って学法していました。しかも、乙さんは「私は病気ではない」と言っていました。これに対して、丁さんは「私たちは表面的な現象ばかりを見て、動じてしまいました。乙さんが病気ではないと思っているのになぜ行くのですか?」と言いました。そこまで話した時、皆は、はっと気がつきました。根本的に私たちの心が間違っていたのです!
内に向けて探すことはとても微妙なことです。同修の病業に対して、様々なよくない念、法に符合しない念があれば、すべて修めてなくすべきです。
「弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます」(『精進要旨』「道法」)もし私たち皆が平然として動じなければ、邪悪に何ができますか?
同修たちはただちに、どこに問題があったのかを詳しく探しました。乙さんの見舞いに行くことから始まって、見た目には偶然の出会い、偶然の招来のようですが、実はすべて師父の苦心の按排の下でのことであり、私たちは全体的に向上しました。私たちが向上し、観念を変えてから、再び乙さんとともに学法を始めました。このことは表面的には同じように見えますが、本質的にはすでに変化しています。
これは私達の地区で発生したことですが、このようなことは他の地方でもあると思います。そこで、私は向上の過程をここに書き、皆さんと共に交流したいと思います。正しくないところはご指摘ください。