心を修めることは全体を形成する鍵(二)
■ 印刷版
 

文/黒竜江省の大法弟子

 (明慧日本)一部の同修はトラブルや魔難に遭ったときに、これが難であることを認識できてもどんな心を放下すべきかわかりません。ある同修はこの状態が良くないと考えていますが、しかし何故そうなったのかがわからないそうです。修煉者の一生は既に変えられたものです。師父は私たちの修煉の道を系統的に按排され、私達が出会った全てのことも偶然ではありません。私たちの修煉の向上と関係があるのです。もし私達が明らかに魔難だと認識していながらも自分の修煉に結びつけることができないならば、日常のたわいない出来事の中でどうやって自分の観念を変えることができるのでしょうか。例えば私達が家族と話すときの情、怒ったり子供に対する異常な心配など、家族を衆生と思ったことがあるのでしょうか? 私達が師が法を正すことを手伝う中、家族との関係を正しく扱うことができたのでしょうか? 私達がテレビをつけて楽しそうにドラマを見る時、自分が積極的に業力を受け取ろうとしていることに気づいているのでしょうか? 人類社会の道徳が腐敗した今日、テレビで放送されているのは暴力、色情、争い、名利情への追求と利益の争奪だけではありませんか。見たいというのはまさに、考えの中で、これらの変異した考えが根本的に変わっていないからではないでしょうか? 私達の脳裏に入ってきたのは物質であり、すなわち業力です。どのようにすれば修煉でこれを取り除けるのでしょうか?

 私達が自分を着飾ったり、服飾を気にかけたりすることは、自分自身の顕示心でしょうか、それとも世の人々に中共邪党が言っているように大法弟子は貧しい人ばかりではないいうことを示すためでしょうか? 私たちは各階層で非常に優秀ではないでしょうか? 私達の基点は法を実証するためであって、自分自身を実証するためではありません。身体のあちらこちらが痒かったり、痛かったり、外に出て寒かったり暑かったり、それは考えの中に安逸を求めようという考えがあるからこそ、身体の感覚にこだわっているのではありませんか? これらの全ては私たちの修煉のため、観念を変化させるためにあるのではないでしょうか? ある同修は街中で歩いている時、どこかで事故があったり誰かが喧嘩しているのを見るたび、修煉者は明鏡止水のごとくあるべきなのを忘れて、すぐにそれを見ようとしたがります。この時あなたの考えは既に有為のものとなっています。師父はこのことを通してあなたの執着心を取り除こうとしているのに、私達多くの同修はまだ自分の考えの中にある良くない部分をただちに掴んで取り除くことができません。さらに自分が今日見た喧嘩などのでき事を、あの人この人に言ったり、誰々がどうだったなどと言いふらしています。

 もし私達が自分の考えをすでに修めトラブルの中、関の中、同修の間隔の中でこれを取り除くことができなければ、師父が按配して下さった人心を取り除くチャンスを見逃してしまい、邪悪は私たちの人心の中で迫害をしてしまうのではないでしょうか?

 修煉とは人心を取り除く過程です。私達が長年修煉してどのように修煉するのか、どのように観念を変えるのかを知らなければ、どのように修煉するのでしょうか? 自分の考えの中にある人心を絶えず排除し、観念を変えて始めて、師父が私たちのよく修煉出来た部分を神の一面として隔ててくれるのではないでしょうか? 始めて法に符合する一面ができるのではないでしょうか? 始めて邪悪の妨害を排除できるのではないでしょうか? さもなければ考えが向上しなければ人間が物事を行なっているのであって、法が人間界を正す時、私達が救った衆生はどこに行けばいいのでしょうか?

 私達が遭っている多くの難と関は邪悪による妨害の要素が入っています。しかしこれが邪悪による迫害であると知りながら根本的に否定できていません。修煉は厳粛です。この難を乗り越えなければ次の難が来ます。それをまた常人のでき事とみなしてしまい、向上できなければさらに次の難が加わってきます。ある程度になると乗り越えることができない大きな難になってしまいます。多くの亡くなった同修や魔難の中に長い間浸っている同修には、このような要素がないのでしょうか? 心を修めると同時に業を滅しているのです。精神と物質は同一なのです。

 ここで私は、迫害前の個人修煉の時期の状況を思い出しました。その時、同修たちは法のなかでお互いに比較し合い、修煉状態が非常に良かったのです。一緒に学法する環境も同修たちにとって非常に魅力的なものでした。皆が学法の場所に早めに来て黙々と心を静めて法を学び、誰の邪魔にもなりませんでした。新しい同修ですら集団学法に参加したいと思っていました。常に向上したいという願望がありました。歩いている時でも自転車に乗っている時でも、ご飯の時、寝ている時でも法を暗記していました。全ての学法点の補導員は着実に修めるためのお手本でした。彼らは同修のために常に責任をもっていました。交流の中で常に法理に基づいて内に向けて探し、皆どのように人心を取り除いて向上したのかを交流していました。そのような雰囲気は本当に良かったのです。本当に同修たちに自分とのギャップを見つけさせ比べ合う場でした。その時の法に溶け込んだ時の充実感は今思い出しても喜ばしく思います。その時の多くの同修も知っているように、学法する時や煉功するときに心を静めることができないのは執着心が多いためです。執着心を取り除いてから始めて心が静かになります。

 十数年が経った今日、多くの同修は法理の認識において逆にわからなくなりました。彼らは内に受けて探そうとしていません。多くの問題において、おのずと外に向けて探してしまい自分自身を変えようとしていません。表面の現象にのみ目を向けて対処しています。眠くなったら発正念をする時に眠気を誘う魔を取り除くことですら、精進している同修が妨害を否定する現れ方にすぎないのです。しかし眠気の魔は私たちの心性と直接関係しています。私達が苦しさや疲れを感じているとき、安逸を求めようとしたり精進していない時だけ魔が妨害してくるのです。長期にわたって煉功と発正念がいずれも寝ている状態の同修は、このことを考えることすらしません。ある同修はそれを取り除き解体すればそれで良いと考え、邪悪を取り除くことを口にしていますが、本当に衆生のためにそれをやっているのでしょうか?

 個人の修煉状態に陥ってしまえば、同修を助けようとしても人心に基づいて何か結果を求めようとしても、出発点と動機は正しくありません。師父はどうやって原則を顧みずにあなたを守ることができるのでしょうか? 一部の同修は魔難の中にいる同修を助けようとしているのですが、助けようとしている時に心が落ち着かず、法理もはっきりしておらず、求める心で対処しています。もしくは発正念をして同修を助けようとするときの動機も、同修がこれ以上苦難に合わないようにするため、もしくは自分の問題を解決するためであって、決して邪悪を解体するという目的、あるいは師に手伝って衆生を救うという目的ではなくなっていることが多々あります。

 地元の状況から見れば、法を正す時期の大法弟子に対する師父の要求からかけ離れていることがわかります。もちろん、すべての同修がそれ程の高い認識に達しなければならないという訳ではなく、それも現実的に難しいことです。私が言いたいのは大法の修煉者として内に受けて探す環境を作るべきだということです。人心があるのは怖いことではありません。怖いのは着実に修煉する環境がないことです。私達は普段から師父の法に基づいて行わなければいけません。学法チームは迫害前のように定期的に交流し、会う人は皆、自分が3つのことの中でいかに自分のトラブルと魔難を乗り越え、いかに念を動かしたのか、いかに正念を持ってそれを乗り越えたのかを交流すべきであって、表面的に誰が何をしたのかを交流すべきではありません。個人の向上について師父がおっしゃった3つのことを行い、衆生をできるだけ多く救わなければなりません。これは師父の希望されていることです。全員が内に受けて探すことができれば、短時間で良い環境を作ることができます。

 私たちは修煉の道を歩む大法弟子です。人心があるのは避けられません。しかも誰もが全ての関を乗り越えられる保証はありません。しかしながら、本心からわからなければいけないのは、私たちは真に修める修煉者であって、大法の中で積極的に法に同化しなければ、だらだらと受身的に修煉しても根本的に自分を変えようとしなければ、何年修煉しても全く変わらないということです。

 各地区の協調人は皆、責任をもって行うべきです。いかに3つのことをよく行うかということと同時に、いかに心性を向上させ地元の同修とともに全体が向上できる環境を作るのか、それを考えていきましょう。

 以上は私の最近の認識です。正しくないところはご指摘ください。

(完)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/17/249388.html)     更新日:2011年11月27日
 
関連文章