文/鐘言
(明慧日本2012年1月4日)私たちは常人の状態にあるとき、とてもかわいそうです。人はただ無数の意識の源が脳の中で生じた後の意識の結果を感受するだけで、意識の源がどこから生じたのかも知りません。億万年来、人々は「自我」によって、頭の中で俗世にある自我の意識を形成して世に生きてきました。人はいったん自我が生じると、私たちの常人の生命は「自我」によって生きるのです。私たちは大法修煉の中で自我を洗浄し続ける過程で、徐々に私たちの佛性を充実させ、私たちの魔性を抑制し、私たちの正念を増強し、大法に対する認識と理解を深め、そして内に向かって探すことを学び、どんなものが「自我」であるかを弁別し、それにつれて「無私無我、先他後我(他人が先、我は後)の正覚」を修得するのです。私たちは自我を放下した後、その修煉は完全に慈悲で、そのときは情に対する執着をすでに完全に立ち切ったということです。
師父は「人体の奥深さは人が知っている表面的な知識ほど浅くはないのです。生命の厖大さと複雑さは、いつまでも人類の永久の謎です」(『精進要旨・穹』) とおっしゃったのではないでしょうか。
自我を放下した後、先天の自分に返ったときは、どんな状態でしょうか? 私たちは自我を放下でき、自我を越え、自我が先天の自分ではないと分かり、謙虚、敬虔、尊敬な心で師父と法に面するとき、師父は私たちを助け、私たちの心のあらゆる鉄門を爆破されます。私たちの先天の自分が完全に解き放たれたとき、先天の自分から放たれた慈悲なるエネルギーは、私たちを喜ばせ、泣きたい気持ちにさせるのです。先天の自分にはいかなる執着と後天の観念もなく、唯一の観念はただ私たちの自我だけです。師父が前からおっしゃっているのは、私たちに自我に対する執着を放下させ、人の観念を放下させることです。私たちが本当にできたとき、億万年の中で助けのない孤独、そして家を離れた苦しい夢から醒め、天上の故郷に戻れるのです。
自我を放下した後、私たちの心は慈悲なのです。師父は「心には慈悲を生み」(『大圓満法・二、動作図解』)とおっしゃいました。慈悲は真のエネルギーです。このエネルギーがあった後、私たちは何をやってもすべて慈悲なのです。例えば、あなたのポケットの中に銅のお金が入っていれば、あなたが使ったのが銅のお金です。あなたのポケットの中に金のお金が入っていれば、あなたが使ったのが金のお金なのです。私たちは以前、頭の中の全部が執着と観念であったため、私たちは人にいくら良く接しても、いくら努めて修煉しても、満面笑顔で人に対応しても、まだ相変わらず執着と観念があるのです。
私はこの20年の修煉の中で、すべての名、利、情、さらに生死を完全に放下したいと思い、そして徹底的に自我を洗浄したかったのですが、自我に生命の主宰から退かせることが今に到ってもまだできていません。これは、私が落ちた本当の原因です。私は「自我」が生命に対する支配権を失うのを恐れ、私の表面の観念の中にその先天の自分を今まで完全に見たことがなく、ただしこの「自我」は私の小さいときからよく知ったもので、私から徐々に組み立てられてきたものです。私は「自我」を信頼し、私にとっては見たことがない先天の自分に敢えて自分の生命を渡せませんでした。聡明な人であればあるほど、その「自我」はいろいろな美妙な智慧に富んだ理由を考え、あなたに生命を神の一面に渡すことを妨害しているのです。あなたは人の中でこんなに聡明なので、そしてあなたの自我は完全にあなたの全部の考えを知っているのです。
世間の多くの大法修煉者はこの俗世の執着を放下できたのですが、どれぐらいの人が自分の生命を先天の自分に戻して主宰しているのでしょうか?
私は、この数年の修煉の中で正法に一つの進展を感じました。明慧ネットで、自分の修煉は正法の進展と同時進行していると書いた同修がよくいました。師父がいったん説法されると、正法の進展はそこに至り、天象もそのように変わり、弟子たちもそこまで修煉して達せば、正法の進展の要求にはじめて符合したと言えるのです。当時、学習班で師父は一人ひとりの修煉者に病気を治療されましたが、無条件で、さらに修煉者に家族の病気のある部位をイメージさせて、家族まで治療されました。私が覚えているのは、学習班で師父は自ら私たちに、あなたたちは家族の病気を治したければ、彼らの病気のある部位を考えてみてくださいとおっしゃいました。学習班を開催していた特殊な時期でなければ、それができるでしょうか?
1999年も大きく昇華した一つの時期でした。それは、師父が私たちを直接に生命の最高位置に押し上げられ、その時期を体験した同修のその飛躍の境地は、通常の修煉状態の中で実現、達成できないと皆が分かったのです。その偉大な昇華は、完全に大法の要求と天象の変化にしたがって達成され、個人が短い数日の間にできるものではありません。今年7月、師父の新経文『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』が発表されました。私はこの経文を拝読し終えたとき、驚きました。今までの私は十年間、体操をやっていたとしか言えません。しかし、その一瞬、私が深く分かったのは、自分は完全に正法の進展に追いついたということです。同時に、私たちは今一度大きな飛躍の段階に入り、完全に、また徹底的に自我を放下する時期に至ったのです。
(続く)