文/鐘言(中国)
【明慧日本2011年12月30日】私たちの市の一部の同修は、皆で一緒にいるとき、すべての人の心が皆とても静かで、心は一つになっています。誰か1人が何かをやりたいとき、他の人は自らの美しさを無条件に捧げて彼を支え、他の人がまた何かをやりたいとき、無条件で彼を支えました。この種の無条件の協力は完全な信頼であり、自らの生命を平然と相手に委ねるのです。これは過去の「自我」をまだ放下していない状態下では全く不可能なことでした。実際、神佛の状態に到達しなければ完全な信頼に達することはできません。人は人を信頼することができないからです。それはある種の生死を超えた、緊密な信頼でした。しかし過去の私たちは実在しない「自我」と観念を信じても、法の選択と按排を信じていませんでした。私たちは以前「自我」を信じましたが、しかし自我は私たちにあらゆる苦しみをなめさせ、人を苦しみの海の中に引き込むだけでした。人は迷いの中にいるとき、「自我」によってもたらされる苦しみが分からず、逆に自我とそれに含まれる観念、執着などのためにすべてを尽くしても惜しくないと感じています。
今年7月、私が自我の真相をはじめて認識した後も、時に数十年の俗世での生涯によって徐々に形成された自我を帽子のように再び被ると、すぐさま私は現実の自分が、真実の修煉境界にいることが信じられなくなり、すべての真実はまた新たに幻となり、まるで遥か遠い村の中でのおぼろげな夢のように感じられました。
この数年の紆余曲折の修煉過程の中で、「自我」に駆り立てられる中で、大多数の修煉者にとって最も放下し難いのは、自分の修煉における威徳と自分の修煉の中での次元だということが、私にはわかりました。皆が、自分は他人より高く修煉し、自分は他人より素晴らしく修煉できると思っています。私たち修煉者は自我に駆り立てられて、容易に修煉を1つの取り引きとみなし、どれほど法を勉強したのか、どれほど煉功しのたか、どれほど人を救ったのかを計算してしまうかもしれません。修煉者の中で、自分がリーダーまたは総協調人になることを望み、大きな威徳を打ち建てられる「三つこと」のプロジェクトに参加し、そして自分が唯一無二の役割を果たすことのできるプロジェクトに参加することを渇望し、どれほど神聖な仕事に中でも、私たちは自我を忘れられませんでした。
私が思うに、どのような生命であっても偉大さを追求せず、ただ法の中に溶け込むべきです。修煉は本当に取り引きではなく、大法の中で修煉の次元や得失を計算せず、完全に大法を信頼し、後へ引けない勇気をもって大法に溶け込まなければなりません。もし誰かが私に、私の修煉の道に計り知れない深い淵が待っていると言ったならば、私は答えます。「それがどうしたって? 私はわざわざ計り知れない深淵へ飛び込みに来たのですよ!」 恐怖を放下し、迷いを放下し、推測を放下し、思惟を放下し、時間を放下し、計算を放下し、独りよがりを放下し、何ものをも恐れない金鋼力士のように放下して、結果の予測できない昇華を迎えます。恐れる必要はなく、あなたが修煉を決意出来るか否かが鍵なのです! 師父がおっしゃたように「誰でも得道するというのは不可能なことで、修煉を続ける人でも、成就できるかどうかの問題があり、どこまで修煉する決意があるかの問題があります。誰でも佛になることはありえません」(『転法輪』)
最近、私は思います。なぜ私は10年もの魔難の中で、10年間体操をしているような感覚の中でも、依然として修煉を続けてきたのでしょうか? 私は早くより、生命の中から唯一の金のような修煉の心を掘り出して大法の中に入れていたからです。大法をしっかりと修煉するというその佛性、金のような心でした。以前の修煉で、私はなぜそんなに早く向上できたのでしょうか? それは当時の私は出家していなくでも、心は早くから出家していたからです。そのときの私は出家者の心があり、ただ常人の生活状態を保持し、煉功場で煉功し、食事をするだけでした。私たちが常人の有為のことを気にかけすぎると、それは自我の表れなのです。例えば、1人の同修があるプロジェクトを取りまとめ、主導し始めた後、大法の按排もそれについていき、師父と衆神も上でこのことを見守られます。しかし、私たちが自我を放下せず、「被協調者」としてプロジェクトに参加するとき、様々な争いがよく生じ、永遠に心を合わせてうまく協調できず、トラブルがいつも生じます。しかし、私が今始めて分かったのは、「同心(心を合わせること)」も真に神聖な存在です。
他の空間に本当に「同心」が存在しています。私たちがまだ天上にいたとき、師父はご存知でしたが、皆が各大蒼穹の主であり、しかも極めて遠く、お互いに会うこともなく、そしてまったく関連のない宇宙の主でした。これらの生命が一旦世に降りて修煉し始めた後、自我の妨害によって誰も他人が気に食わず、しかも皆も本当にとても大した人です。そこで師父は、「同心」を無数の心に分け、誓約を結んだ一人一人の宇宙蒼穹の主に与えられました。それから、宇宙の中に遠くて全く関連のない生命達は、本当に同心を持ちました。従って、私たちは今日、等しく大法の集団の中で、誰であろうと他人を完全無私に愛し、無条件に最もすばらしい心を用い、負けず嫌いだったことのある同修を支えることができなければ、その人には私心があり、人の殻を脱げず、夢から根本的に醒めていません。私は以前、合十するとき、これは非常に良い礼儀だとよく感じましたが、今再び合十するとき、完全に神聖純粋なすばらしい状態でした。合十のとき、最もすばらしい心で相手にお辞儀をするからです。
(続く)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/12/22/130270.html) 更新日:2012年1月11日