93、99、2011、生命の三度の飛躍(五)
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文/鐘言

 (明慧日本2011年12月28日)実際、自我も私たち毎生毎世で自ら寄せ集めた一つ人間としての考えです。私たちは様々な生命、武士、淑女、秀才、財閥、奴隷などに転生したことがありました。私たちは異なる社会の役割を体験すると共に、この社会の役割に適応する人間の考えを寄せ集め、その人間の考えは実際私たちが通常言っている自我のことで、そしてこの自我は後天に形成された観念です。

 人は生まれたとき、すべての記憶が抹消されたのです。私たちは世間に来た後、自分は誰か、宇宙のどこから来たのかなど、先天の自分をまったく知りません。私たちは世間で徐々に成長し、徐々に老化し、そして私たちは堅く信じている自我という観念がますます強固に形成されたとき、私たちは先天の自分をますます本当に忘れてしまい、ますます三界の迷の中に落ちていきました。この迷の中で、私たちは自我という限られた認識の中で万物、そして自我を認識し、自我を自分のものとしてみなし、愛、恨、情、仇の中で悲喜こもごも、離合集散を享受しています。

 落ち着いて考えてみれば、先天の私はいったいでしょうか? 悟りを開いていない修煉者はこの問題回答できないのです。私たちは自分が誰かを分かったとき、それは1の悟りを開いた覚者ではないでしょうか? ただ師父法の中で私たちに教えられたことがあるだけで、私たちの先天の自分は今私たちにとって1遥かな伝説、1の知る方法のない何か、1神聖かつ純潔な何か1この世に存在していない慈悲です。

 私たちのこの三界の中に本当に自我という1生命があります。実のところについて言えば、彼も三界全体被さる1生命です。それでは、この三界の巨大な範囲存在する「自我」は私たち人間にとって彼も一つ神で、この生命はすべて世の人を助けて自我の意識を形成させます。この自我の意識がなければ、私たち人類は自分が学んだ知識と様々な人生経験を積むことが出来ず、世間で正常に生活することができないのです。自我意識が世間で形成された後、これは密封された、人としての殻なります。それは私たち自我を自分のものとしたからです。

 さらに私は気付いたのですが、自我が世のあらゆる衆生を迷わせました。私の毎生毎世の「自我」は皆私でしたが絶対に、先天の自分ではないの確かです。

 私たちの自我は私たち現在思っている自分のことで、ただ一区切りの生命歴史と一山の観念の組合せ、寄せ集めた人間の考えだけです。私たち自我を抱いて放下しないとき、それはいっぱいまれた執着、観念と名、利、情を抱いているときです。人自我を抱いて放下しないのであれば、二つの選択しかありません。一つは自我に操られて悪いことをやること、もう1つは自我を隠して表面的に善良いによって純潔を装うことです。ただしさらなる高基準から見ると、その自我を捨てられないのなら良い人と悪い人の区別ただ表面にあるだけで、そして程度の差異があるだけで本質同じです。ただ一部の人は自制力があるからやらないだけです。最もあり得る可能性あなたの「自我」の中の観念と執着が他の人ほどには多くないということでしょう

 社会の価値観への追究も、自我による苦痛な妄念の一種です。本質から言えば、私たち一旦ある社会の中の役柄を認めると、その役柄は私たち一種の負担なります。例えば私は修煉に入ったとき真の念動いたので、大法が素晴らしいですから純粋に修煉だけできれば楽しいと思いました。しかしその後そうではありませんでした。例えば、早くからすでに明確に示されたことですが師父は1大道無形の修煉方法を取り入れられました。しかし人心は寂しさに耐えられません! 修煉中の人はおそらく、依然として密かに心の中で自分に対してある種の役柄をあてがうかもしれません。皆の心の中にある自分に対するイメージを維持し、守りたいと思っていますが、これもすでに一種の自我の表現でした。私たちは他の人が自分の修煉が非常に良くできて、とても精進している見てくれることを期待し、さらにこのイメージを失ってしまうこととても心配するかもしれません。そして私たちの修煉状態が本当はすでに悪くなっている時、私たちは必ず修煉者よく会わなければりませんが、私たちはすでに落ち着いて学法と心修めることができなくなっていることを他の人に敢えて話すことができず、自分の修煉良くできているというイメージを守ろうとするかもしれませんはすでに落ち着いて法を学ぶことと心修めることができ、頭の中で各種執着と雑念が極めて盛んに渦巻いている状態の中で三つのこと行っていました! なぜこのようになってしまったのでしょうか? それは自我がやった悪い事ではないでしょうか。心はすでに落ち着いていないから、名と情への執着追求をまだやめることが出来ず同修と激しいつかみ合いをしてしまってもまだ醒めず、自我に支配されている状態から積極的に離脱できなければ、誰か私たちの生命を主宰しているでしょうか?

 師父はおっしゃいました。「しかし人類が、自分自身や宇宙についての認識を改め、硬直した観念を変えることができるならば、人類は大きな飛躍を迎えられるに違いありません」(『転法輪』 「論語)。私は今法の中で法を認識することは、無窮威力があると本当に分かりました。今、私は変えられないとき、昇華できないとき、法から認識し、法と照らし合わせて内に向けて探しました。これは遮ることのできない昇華の道だと深く認識しました。全の物質は師父に取り除かれたため、私たちはやるべことは確固として維持し、法の中で何が私たちれている硬直した観念であるかを認識するのです。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/24/248896.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/12/15/130131.html)     更新日:2011年12月28日
 
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