文/黒竜江省の大法弟子
(明慧日本)最近、私たち地元の大法弟子の間では、絶えず同修が病業の形で亡くなるケースや、もしくは病業の難を長い間突破できないという現象が現れています。周りの同修は毎日いたずらに発正念をしたり、魔難の中にいる同修が法に基づいていない状況を見て「やはり本人が正念を持たなければ、周りがいくら応援しても変わらない」などと不平不満を言ったりしています。確かに法理から同修の話を考えてみればその通りだと思いますが、しかし実際の所、個々人の修煉者の法の中での現れは、まさに私たち地元の全体の修煉状態の現れなのです。
私達の地区の学法グループでは、多くの同修が学法する時に神聖な修煉状態では無くなっています。朝早く来た同修の多くは雑談して常人の内容を話しており、遅く来た同修は来る時間が非常に遅く、開始時間が過ぎた後に続々と入ってきて、扉が開くたびに同修の集中を妨害しています。学法するのに本を持ってこない同修も増えてきて、8、9人が一冊の『転法輪』を回して読んでいます。しかも中には「あなたが多く読んでしまった」とか「彼女はまだ読んでいない」などと、本を読む量に不満を抱く人もいます。一部の同修は資料点の同修が提供してくれた修煉環境を重視しておらず、口を修めず責任を持たずに「誰々は資料点の責任者だ」などと、あたかも関係者が皆彼と知り合いであるかのように言いふらしています。
長年、たくさんの学法チームが既にこのような形式に陥ってしまい、同修達は学法が終わったらすぐに帰ってしまい、学法の後に交流していかに3つのことをしっかりと行うのか、いかに内に向けて心性を向上させるのかなどを話し合わなくなりました。たまに雑談の中でそれらが話題にのぼっても、表面的な事しか話していません。また、私にはこの執着心があり、私には顕示心があり、私は闘争心ですよね、などと執着心について気軽に論じるだけで、内心から人心を取り除こうとするような感じは全くありません。
師父は『二〇〇五年サンフランシスコでの説法』の中で、次のようにおっしゃいました。「もしこれらのものを本当に重く見ることができれば、これらの執着を抑制し、弱めることができ、徐々に完全に取り除くことができます。もし、自分が問題を自覚しており、気持ちも焦っていますが、実践の中で真にそれを抑えたり抑制したりする努力をしていなければ、それはただ問題を認識し、この種の思想活動を感じたことに留まり、それを抑制するための行為を起こしていません。つまり、問題を意識できたのですが、実践の中で修していないということです。」と説かれました。
多くの同修の修煉状態を見て、本当に心配しています。長年、法を正す時期の修煉と仕事との関係を正しく把握しておらず、3つのことをする量の多さによって修煉状態の良し悪しを量っているかのようです。大法の修煉とは人心をじかに指していることを忘れてしまっています。心性を見るべきです。多くの同修は毎日忙しく、様々な環境の中で衆生を救っています。これによって表面的に見れば大量の衆生が救われました。しかし多くの同修が人を救うときの基点は正しくありません。本当にこれらの衆生が救われるのかどうかについて師父は『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』という経文の中で「私は話したことがありますが、あなたが行なったことは法に則っていなければ、法の力がなければ、あなた自身がしっかり修めることができなければ、そのことを円満に行なうことができません。あなたはそのことを行なったかもしれませんが、そのことは作用を働かず、人を救うことができず、邪悪の要素を解体することにもあなたは作用を働くことができません。」と説かれました。様々な方面から見て、地元の同修たちは心を修めることが足りていません。一部の同修が学法して真相を伝えていますが、基本的に常人の現れです。自宅に帰れば常人に変わってしまします。家庭の中の様々な環境での出来事、心性の摩擦について法に基づいて考えておらず人間の観念で見てしまいました。
ある同修は衆生を救い済度することにおいて、本当にしっかりと行なっています。毎日時間さえあれば面と向かって真相を伝え全ての縁ある人を見逃しません。慈悲深く和やかで人に親しみを感じさせます。周りの同修もこの同修を見て、よく修煉ができていると感じています。多くの同修がこの同修を褒めています。私はこの同修と普段多く接しています。私が何回か彼女の家に行った時、そのたびに彼女は一人でテレビをつけていました。しかも普段、家の中の出来事、家族同士の色々なことについても放下できず、色々と追求したり、様々な外での活動の際も、常に誰が間違っているのかを追求してしまいます。ある時私はこの同修と交流する時に、「あなたが普段関に出遭った時、修煉者として心の中にある正しくない考えを排斥していますか?」と質問しました。しかしこの同修の答えには本当に驚かされました。同修は「排斥したことはありません。だって探し方がわかりませんから」と答えました。もちろん、ここでこの同修の修煉が良くないと言いたいわけではありません。私はただ、地元の多くの同修が心を修めようとしていないということを言いたいだけです。多くの同修は、毎日3つのことをしっかり行なっていますが皆、修煉の状態に基づいておらず長年の間、3つのことを行うことが心を修めることの代わりになってしまったかのようです。そのため心性も真に向上していません。これは地元では普遍的な現象です。多くの同修は3つのことさえ良く出来れば、法の進展に追いついているのだと思っているようです。
(続く)