周りの同修を引っ張って、共に前へ進む
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 明慧日本2012114日】この十数年の修煉を振り返ってみると、時々「私(し)」の状態が分ります。三つの事を非常に頑張っており同修からもよく修煉できていると思われています。しかし今振り返ってみると、大きな漏れが存在しています。即ち「私」です。今まであまり周りの同修の状態に関心を持たず、考えていませんでした。それは協調人の仕事だと考え、自分は自分のことをよくやればいいと思っていました。同修が本当に助けを求めている時私は何をすればいいかも分からないので、最後に遺憾を残してしまいました。

 数年前、私は二人の同修とだけ連絡を取りあっていました。一人は家族全員が修煉しているのですが、しかし精進していませんでした。同修には、たくさん法を勉強しましょうと数回指摘しましたが、同修の他の家族に関しては関わったことがなく、自分が関わる問題ではないと思いました。実際は同修に対して責任を持っていませんでした。毎回資料を届けるだけで任務を果たしたつもりで、彼らと法を勉強しようともせず、その時は他のお年寄りの学法グループに通っていたので、忙しくて他の所には行けませんでした。去年彼女のお父さん(同修)は突然病業状態が現れ、ちょうど資料を届けに行って分かったのですが、ご家族は大丈夫と言っていました。どうすればいいのか分からなかったので、発正念を手伝っただけでした。しかし数日後同修のお父さんは亡くなられました。

 この件について、私は内心でずっと後ろめたく感じていました。もし自分自我を放下できていたら、精進していない良くない状態を見たら適宜に指摘し、また何か方法を考えて、学法グループを作ってあげていたら、このようなことにならなかったかもしれない、もしそうできていたら、どんなに良かったでしょう。

 またもう一人の同修も病業で亡くなりました。亡くなる前たくさんの同修がお見舞いに行って交流し、一時は彼女の家はとても賑やかでした。みな彼女も多くの問題があることが分かって、彼女が元気になるように願っていたのですが、やはり亡くなりました。もしこのお見舞いと交流数年前にしていたら、特に周りの同修が彼女の問題に気づいた時から交流をしていたら、今日のような結果になったのでしょうか。本当にそうとは限りません!

 病業で亡くなった同修は大体個人修煉が付いて来ていない人です。それでは周りの同修として責任はないでしょうか? 私たちがこの世に来る時互いに相手を呼び覚ますよう約束したかもしれません。私たちはそのようにできたのでしょうか?

 師父は私たちに無私無我に成就してほしいと願っていますが、私たちは相手が指摘を受け入れてくれないのを心配し、自分傷つけられるのも恐れ、面子に阻まれて他人の問題を指摘することができずにいて、それは実際には自己ための心が作用しているからです。師父は私たちに「失わないものは得られず」の理を説いてくださいました。他人を助ける同時に自分も高めます。私(し)を放下できずにいたら、どのように宇宙の特性に同化し、無私無我の正覚になるでしょうか。

 われわれは何もかもを協調人に頼ってはいけません。真に修煉して、着実に自分を修めたいなら、責任感を持つべきです。法に責任を持って、同修に責任を持つこと自体は自分にも責任を持っているのです。

 周りの同修として、最も相手の不足に気づきやすいので、相手にそれを教えてげ、方法を考えて相手が受け入れるよう、不足を正よう勤めるべきです。同時に内に向けて探すことこそ共に高めることができます。くれぐれも自分の仲間であり、自分と大きな縁を持つ同修が落伍しないようにしましょう。甚だしきに至っては旧勢力に取られてしまいますので。そうなればあまり同修に申し訳ないし、自分と師父にも申し訳ないです。

 周りの同修と共に歩んで行くのも私たちの責任です。個人の体験と悟りです。不適当なところはご指摘を願います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/1/10/251666.html)     更新日:2012年1月15日
 
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