(明慧日本2012年1月12日)「私(し)」はすべての人心と執着の元であることが最近分かりました。大法の修煉に戻って数年が経ち、最近やっと、自身にこれほど大きな執着が隠されていたことを発見しました。今までずっと修めてきて、他人のためを思い、自分が損をしても他人に損をさせたくなく、常人のときに我慢できなかったことを忍耐できていると自分は思っていました。しかし振り返ってみた時、自分が何をやってきたのか、同修からの心性の関などを全てはっきりと覚えており、たくさんのことをやってきたのだから、その威徳もそれなりに大きいはずだと幻想したこともよくありました。実際は、利己への執着が根本から変わっていませんでした。
もし自分が無私であれば、何をやってきたとか、同修とのトラブルを記憶することはなく、更に自分の威徳、次元、円満成就を考えることもないでしょう。大法の一粒子としての本性は、元々他人のためなので、支払うことと得ることの関係を結びつけることもないでしょう。この思惟はまるで旧勢力が法を正す中での行為のようで、自分が変えたいところだけを変えて、変えたくない部分はまさに「私(し)」であることを自分でも知らずにいます。この「私(し)」は人心として表れるとき、例えば、闘争心、嫉妬心、歓喜心、顕示心、恨み、色欲、名利、情、愛、好き嫌いなどは「私(し)」から変異してきたものです。われわれはちょうど師を手伝って法を正す過程で、だんだん旧宇宙の「私(し)」を取り除き、自分を清め、大法に同化していくほかありません。
基点が不純なとき、人心の下で行なっていたすべては、自分の次元、円満のための努力であり、「私(し)」を巡ってやっているので、これもまさに法を正すときに旧勢力が淘汰されないように、それなりに正しいと思うことを行い、旧宇宙の理に基づき師父を手伝っているかのようです。実は「私(し)」を抱えて新宇宙へ行くことはできず、旧勢力が行なったすべては師父が法を正すことを妨害しています。
三つの事を行なっていますが、内に向けて探すことを重視せず、事をやるためにやっていると、往々にして自分がいくらかよく行なったと思いがちで、自分を大法の中に置かず、大法が修煉者に求めている取り除くべき人心が長期にわたって取り除かれず、何の人心があるかを考えることすらもせず、頭が各種の変異した観念に支配されても知らずにいる事が続くと、自分がまたよく修煉できたと思い、「常人に符合している」ため、周囲に何のトラブルもなく、それは人心が執着しすぎているかもしれず、自分が修煉者として、常人の中でどのように自分の位置を置くかも分からなくなりました。
最近、慈悲なる師父は、様々な面で迷う私にお告げをしてくださり、同時に非常に突出した人心を暴露してくださいました。この「私(し)」の心を見つけた時、以前の事を振り返ってみると、同修の私心が見えたことも偶然ではありませんでした。しかし、その時は同修を自分の鏡として見ることができず、今改めて考えてみればとても恐ろしく感じ、この「私(し)」が強烈で自分もそれの存在に気づかないほどだったため、自分が利己的だと考えたこともありませんでした。普段執着心を見つけているのですが、しかし、これらの執着心の元である「私(し)」を掘り出していませんでしたが、今日やっと認識できました。
皆はおかしいと思うかもしれませんが、しかしこれは事実です。私はあまり修煉できておらず、もしよくできていたら、師を手伝って法を正す大法弟子として正々堂々とした正気と正しい念を反映するでしょう。そして世間の名、利、愛、恨み、情、好き嫌いに動揺せず、衆生は苦しんでいると思い、時間を大切にして真相を伝え、彼らを救い済度することに力を尽くすでしょう。幸い今の私はだんだん分かってきましたが、今後の日々は更によくできるように努力して、正真正銘の大法弟子になり、師父の慈悲の済度に背かないようにしていきたいと思います。