文/中国の大法弟子
人間は誰が何をするにしても、みな目的と出発点を持っています。出発点と達しようとする目的が異なれば、それに応じて、得られる効果も異なってきます。
同じく大法を学びにきた人で、同じく集団煉功に参加し、同じく集団学法に参加している人であっても、病気治療のために来ている人もいれば、自分の精神的な向上のために来ている人もいて、ユートピアを探しにきている人もいれば、修煉して得道するために来る人もいます。表面上は同じく煉功し、同じく学法していますが、その効果は一万八千里ほども差があります。法のなかで一日1千里向上できる人もいれば、ある次元に留まり、前へ進むことができない人もいて、ひいてはまだ大法に入門できていない人もいます。
同じく三つのことを行っていても、もし私(し)のため、我(われ)のためという心を抱いていれば、それは自分の円満成就のためであり、自我を実証するため、自我の何らかのためにやっているのであって、これは常人があれこれと何かを追求することと何の変わりもありません。この状態で仕事をすると、常人の決まった思惟形式に陥るしかないのです。それは、大法の仕事をすることを自分の円満成就のための投資と見なす心理であり、投資が失敗したら、神の利点を得られないばかりか、人間の美しい生活さえも得られないことを恐れて、個人の損得にばかりこだわり、幸運を望みながら、失敗を恐れる心理の間を行き来してしまいます。つまるところ、これは貪る心です。つまり神の利点も得たい、人間の利点も手に入れたいということです。これはすでに完全に修煉者の持つべき心理状態ではなく、修煉の道とはすでに背反しています。修煉者の講じるのは「失」であり、師父は『転法輪』のなかで、「したがって、われわれの言う失は、より広義なものであり、それは修煉する全過程において、常人のもっているあらゆる執着心とあらゆる欲望を放棄しなければならない、ということを意味します」、と説かれました。しかし、このような心理状態の場合、かえって一生懸命に得ようとし、利益を手に入れようとしてしまいます。この貪る心はまさにしっかり修めるべきではないでしょうか。実際、神から見ると、この人は普通の常人よりも劣っています。なぜなら、彼が神を利用し、神を冒涜しているからです。
もし無私の心を抱き、完全に人を救うため、大法を実証するために、三つのことを行うと同時に、自分の心性を修煉し、自分の持っているすべての執着、欲望と常人の美しい生活に対する執着を取り除き、すべての執着を切り捨て、無私無我になり、一人の神の正念と正しい悟りを持って、三つのことを行えば、それこそ、神が世間で師を助けて法を正すことになり、それは殊勝で偉大なことです。
師父は「一部のことは常人がやっていることのように見えますが、常人は私利のため、常人の目的のためにしていますが、皆さんは大法のためにしています。立脚点が違います」(『導航』「北米五大湖地区法会での説法」)と説かれました。
従いまして、私は、修煉するとき、法を正すとき、三つのことを行うとき、まずは心を正しくし、真面目に師父の法の要求に従って、着実に修煉してこそ、真に修めることになる、と認識できました。