心が冷淡な原因を探す
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 文麗萌

 明慧日本2012年1月2日】困難にあった時、内に向けて探しても、表面だけにとどまり、内心を探しても見つからないことがよくあります。修煉していくにつれて、次第に自分が冷淡で、この世の中に嫌気がさし、何に対しても無関心で元気がなくなったことに気づきました。そこで、師父の写真の前に座り、必ず問題の根本を掘りだして、邪悪が存在する空間を残さないように師父に加持をお願いしました。突然、師父の話を思い出したのはその時でした。「実質的なものは常人に知らせてはならないからです」(『転法輪』 第四講「玄関設位」) そして、私は火眼金睛翻訳者注:出典は『西遊記』孫悟空が持つ神通力で、正邪を見抜く眼力のこと)を自然に連想し、それを使って一体どこに問題があるのかを見てみたくなりました。

 このように考えると、私とそっくりな人がたくさんの鬼に取り囲まれ、心地良さそうにベッドの上横になっている映像が頭の中に現れてきました。この鬼たちは跪きながら、私のそっくりさんを得意にさせるように煽て上げていました。そして、そっくりさんは顔中喜びに溢れ、鬼たちの褒め言葉を楽しみながら、酒グラスを待ち、自分を麻痺させ続けていました。名誉に対する執着があるからこそ、自分を麻痺させ続け、真相向き合わず、自慢と満足ばかり追い求めていました。ですから、そっくりさんの隣には神と仏だけではなく、大法と衆生もいませんでした。

 名を求める心は更に良くない要素に利用され、著しく膨らみました。この心により、偽の私が作り上げられて、本当の自分が何を望んでいるのか極めてわかりにくい状態になりました。そして大法プロジェクトに参加する時、まるでこれが自分のために立ち上げたウェブサイトであるかのように、自分が書いた文章採用されたか、掲載できるかどうかばかり考えていました。名誉のために文章を書き、大法ウェブサイトに心から円容すべきいうことを完全に忘れていました。衆生を救い済度するために、このサイトを立ち上げたのです。大法のことをやっているからこそ効果があります。もし名を求める心を持ちながらプロジェクトに参加すると、良い文章が書けなくなり、純粋な環境を汚染してしまいます。もちろん、このような文章は採用されるはずありません。全ては心性と緊密に関わり、心性を反映しています。心性が基準に到達することができなければ、この時に書いた文章も作用を発揮できないはずです。なぜなら修煉は常人の基準のように文章をいかにうまく書けるかという事を修めるのではなく、心だけを修めるからです。「名声に執着するならば、有為の邪法で、もし世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します」という『精進要旨』の「修める者の忌」の中の法をもう一度勉強すると、名に執着する心は法を乱し、極めて危険なことなので、真剣に向き合わないといけないと認識できました。

 そして、私は更に深く隠れている変異したものを探し出せるようにと師父にお願いする時、依頼という物質に気づきました。師父に加持をお願いする時、このような物質が存在するので、常人の哀願のようで、尊敬と厳粛さがありません。冷静にみれば、依頼は理性がない粘々した物質で、これが自発的に他のものに張り付くと、自発的に動くことが出来なくなり、そこにただ存在し続けるだけとなります。私はこの心があるから、自分の道を歩むことができなくなり、ただここに粘々として張り付いています。依頼心を乗り越えない限り、仏になることも、円満成就することも出来ないはずです。

 先日、同修用事があるので、私に大法の活動を代わってくれないかと聞いてきましたが、私は利己的に断りました。そして家に帰ったら、私は咳が止まりませんでした。このことにより、全体の修煉環境から離れれば、良くない要素が身体に入り込むようになると認識できました。実は全体的な修煉こそ、最も早くて効果的なのです

 この思想を徹底的に整理する過程で、自分が利己的だとわかりました。ですから誰からも干渉されたくなく、誰からも妨害されたくないなどの表れがありました。自分以外のものに無関心で、他の人から離れ、親戚や友達にさえ挨拶をあまりしなくなりました。自分自身が行ったことだけに注目し、全体への意識が乏しくなりました。次第に人との関係で、生活の環境がますます寂しくなり、自分ますます冷淡になりました。たまに大法を言い訳にして、ずる賢く執着を包み隠したことありました

 これ程たくさんの執着があり、長期間、学法をしっかりすることが出来なくて、ただ時間を無駄にしてしまったと考えると心が痛くなります。利己的な執着があるから、私は冷淡で麻痺してしまったことが明らかになりました。人心で何かを考えると、恐らくこれは執着に間違いありません。常人の心でどんなに細かく予想しても、大法と師父の按排とは比べものになりません。法を信じて法に円容し、法に従って行動することこそ最も正しいことです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/30/251207.html)     更新日:2012年1月3日
 
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