1990年代生まれの大法弟子「法の中に溶け込む幸せ」
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 (明慧日本)多くの若い大法弟子は、青年の同修達に多く投稿するようにと提案する文章をよく明慧ネットで見かけるでしょう。現在の青年同修の多くはみな大法の中で成長してきた当時の大法小弟子です。同修と交流することも法を円融することだと思い、書くことにしました。

 修煉の道に手本はないと言いますが、大法弟子が心を修める要求は同じであり、心を修めることに、年齢の区別はありません。90年代に生まれた私たちの世代が幸いにも大法に出会い、子供の頃に大法が広く伝わり繁栄していた時代を体験し、法の中で成長した幸せを感じます。しかし、少年時代に猛り狂った邪悪の恐怖も体験しながら、今日に至って師が法を正すことを手伝う大法弟子になりました。生活の貧しさと病業の苦しさを嘗めさせられたことはありませんでしたが、物が氾濫する今日、自身の高潔を保ち、常に大法弟子であり続けることは本当に難しいことです。小さいころから党文化に蝕まれて、身を処する基本的な理念がまだ分からず、変異した文化の環境で育てられた世代がこの殻から突き進もうと思えば、真に法を学び、真に修煉するほかありません。

 ここで、明慧ネットを借りて、私の修煉における体験を交流したいと思いますが、間違ったところがあれば、慈悲にご指摘ください。小さいころから、物に困ったことがほとんどなく、家庭状況はずっと悪くありませんでした。また、学業の面においても、比較的順調でした。常人からみれば、このような子供は幸せに暮らしていると思われていますが、常人の「幸せ」はただの見せかけであり、常人の「幸せ」は真の幸せではなく、大法の中で心を修め、欲を断つことこそ真の幸せだと分からなかったのです。

 しばらく前に、私はとても大きな家庭の魔難を体験しました。私が真相の手紙を郵送しようとしたとき、修煉していない父と母に見つかりました。当時、私の住む地区で邪悪が猛り狂い、警官らが頻繁に私の家にきて妨害していたので、父と母は全力で、私が大法を学ぶことを反対しました。彼らは泣いたり、土下座したり、私を殴ったり、罵ったり、パソコンを没収したり、軟禁したり、さらに関係を断絶する等、さまざまな手段を使い尽くして、私が法を学び真相を伝えることを妨害しました。

 あの日々、私はいったいどこがよく修煉できていなかったのか、そしてその結果、このような大きな家庭の魔難を招いたことに対して本当に困惑していました。私の父と母は、強硬な手段や肉親の情を用いましたが、私が全く動じないことが分かり、最後に私を他地区にいるおばさんの家に連れて行くことにしました。そこに着いたら、母は片時も私から離れることなく、毎日私を連れて街をぶらぶらしたり、食べたり、飲んだり、遊んで楽しみ、寝るときも私と一緒でした。しかし、慈悲なる師父は私を見捨てることなく、こんな状況であっても、私は時間を利用して師父の経文を読むことができました。私はこっそりと『マンハッタンでの説法』、『2008年ニューヨーク法会での説法』、『2010年ニューヨーク法会での説法』を持って行き、毎日時間を見つけて読みました。また時間を有効に使って、『転法輪』を読み、『洪吟』を暗唱しました。毎回法を学ぶときに、師父は私を悟らせてくださり、どこに執着があるか、どのように対応すべきか教えてくださった気がします。

 まず私は、自分が何かをしようとする心を見つけました。心を込めて真相の手紙を書くのではなく、適当にネット上で同修の書いたものをコピーするだけでした。チェックすることさえもしないで、去年に起きたことを「今年」に変えるだけで、人を救うという大きなことに対して、いい加減にやってはならなかったのです。

 同時に私心が重く、他人のことを考えたことがありませんでした。口を開いて真相を説明したくなく、理解されず悪口を言われることを怖がりました。私はずっと褒め言葉だけを聴きたく、一言でも悪口を言われるのを恐れていたのです。いつも皆が私のやっていることを理解してくれると期待するだけで、自分はいつも真相をきちんと説明しませんでした。ある日の夜、やっと少し突破できました。母にこれら全ての因果関係を伝えました。心から、母が大法の真相を理解して、邪悪に協力しないでほしいと思いました。同時に、私は初めて自分が大らかではないと認めました。大法の真相を説明することも正々堂々とすべきです。私の態度が変わると、母も変わりました。私が母に心を打ち明けたので、母はこれからもう大法の悪口を言わない、大法を信じると言いました。

 最後に自分の貪欲の心も見つけました、「貪欲」に含まれる執着は本当にたくさんあります、食べること、睡眠、名誉、利益、安逸、褒め言葉など、どれも修煉の邪魔になるものです。今回の魔難も貪欲の心から起こったのです。ある日私はバックを持って、真相の手紙を入れて、野菜を買うついでに手紙を送ろうと思いました。自分がお金を持っているのに、母にお金を求めました。母は「私の財布を持って行って、他にバッグはいらない」と言いました。私がどうしても自分のバッグを持って行こうとすると、母は腹を立て、私のバッグを調べて、真相の手紙を見つけました、それから一連の魔難が起こりました。母は毎日私をいろいろな所へ遊びに連れて行き、おしゃれな服を買ったり、私を男性と2人きりで遊ぶことまで許しました。また、何千元も出して私を旅行させました。これらすべては私の常人世界に対する様々な執着を満足させるためです。目的は私を麻痺させることで、常人社会の安逸に惑わせて、大法を学ばせないためなのです。学法は本当にとても大事です。その時に持っていた、何冊かの新経文の小冊子のおかげで、私は常人生活に迷わないようにと、いつも自分に注意しました。自分の心を深く掘り出したところ、ある日母は突然、ずっと外にいてもつまらないと言い、私を連れて家に戻りました。

 今回のことを通して、修煉は本当に厳粛であると実感しました。心は一つも隠すことができません。どの心も修煉の邪魔です。私は常人のすべてが実に空しいと感じ、常人が思う幸せは本当の幸せではなく、彼らの追求する物質的な生活は一時的な興奮にすぎません。心安らかで、法を得た喜び、人々が真相を知って救われた時の喜びこそが本当の幸せなのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/10/250366.html)     更新日:2011年12月21日
 
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