文/中国 内モンゴル自治区の大法弟子 文心
最近ある親戚からある話を聞きました。数年前、朝陽市黒水鎮の大法弟子が、真相資料を束にしてスイカ畑の傍に置いていたため、常人がその真相資料をスイカの受粉に使用するために持って行きました。その結果、収穫はとても悪かったそうです。そのことが影響して、一部の常人は大法と大法弟子に対して、良くない印象を持つようになり、現地で救われるべき人がいまだに救われていないと言っていました。
私の地区にも似たようなことがありました。例えば、田舎に行って、真相CDや真相資料を配るとき、庭の中に置かず、一部を路上に放置していました。その結果、一部の資料が清掃する人たちに持って行かれました。このようなやり方は、一方では大法の資源を無駄していますが、さらに重要なことは、大法弟子がいい加減で、大法に対して責任を負っていないという印象を常人に与えてしまいます。
また、真相シールを他人の広告の上に貼ったり、あるいは大通りの告知板や、電気料金の通知書に貼ったりすることも問題です。常人はこれを見て、とてもモラルがない行為だと思いますが、その真相資料は人を救う作用を果たすのでしょうか?
これは少数の人の行為ではありますが、他の大法弟子が真相を伝え、世の人々を救い、済度することに困難をもたらしてしまいます。
大法弟子はいかなる状況下でも良い人であるべきです。ましてや、私たちは大法を実証しているのでなおさらです。大法のプロジェクトをこのように行なってしまう原因を調べてみると、中国大陸の厳しい環境の中で、一部の大法弟子は大法のプロジェクトをする時、任務を完成させようとする心を持っており、また一部の人は恐れる心を持っていることがわかります。師父は私たちに「この道は非常に狭く、非常に正しく行なわなければならないほど狭い」(『大法弟子とは何か』)、と説かれました。私たちがチラシを配ったり、真相シールを貼ったりすることは、見た目は常人の仕事に似ていますが、私たちの出発点は人を救っているのであり、なんと厳粛で、神聖なことなのでしょう! 私たちはどうして結果を考えずに、いい加減にすることができるのでしょうか。
私たちは長年、師父が法を正すことを手伝ってきました。法を実証することを通じて、大法弟子の純正さと慈悲を現すべきであり、大法の力をもって、法を実証するプロジェクトをしっかり行うべきです。大法弟子が大法のプロジェクトを行う場合、法理に則っているからこそ、大法の力を持つようになり、そうしなければ、大法が人を救うことに損失をもたらしてしまいます。私たちにはこの責任を負うことができないということを、しみじみと認識しています。