修煉に戻り、窮地から脱出する(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年1月29日】

 窮地に追い込まれる

 私は、1987年以降、数多くの気功を試みました。佛教に対しても世間で言われているように「修煉は健康に有益である」と認識していたものの、本格的に修煉の道に足を踏み入れることができませんでした。1997年の夏、友人が私に一冊の『転法輪』をプレゼントしてくれました。一気に読み終え、気功と佛教に対する疑問が自然に解けてしまい、それから法輪功の修煉をしようと決心しました。しかしその当時、法輪大法は体の鍛錬と心の修養に過ぎないと理解していました。7.20以降仕事が忙しく、積極的に大法弟子のやるべき事、師が法を正すことを手伝うことをきちんと行いませんでした。ただし、大法は人生の最終目標だと明確に分かっていました。

 2007年の46歳の夏まで、正法時期の大法弟子としての責任について、本当に理解できていませんでした。1989年に大学教授の職を辞して商売に従事するようになってから、いわゆる改革開放は民衆の利益を、貪欲に個人のポケットにかき集めている現実を目の当たりにして、大衆を騙す悪質なペテン師だと分かりました。それに首を突っ込むにはお金、権力、腹黒い根性と良知の無さが必要です。それらのいずれをも持たない私は、わずかな羞恥心を以って金儲けの近道を回避しました。18年間にわたって孤立無援の中で必死に奮闘してみましたが、秩序と道徳心が失われている市場競争は残忍さと混乱を極めるものでした。2007年には私の借金はすでに200数万元にも上り、体は、重度の強直性髄頭柱炎を患い、ろくに歩けないほどボロボロでした。

 修煉に戻り 窮地から脱出

 私は今まで、自分が正直で善良、勤勉で努力をしているいい人だと認識していました。初めて大法を知った時から大法に従って正直な経営者になろうと思っていました。しかし、大法と修煉に対する理解が不十分なため、特に正法時期の大法弟子としての責任をよく理解できていないため、人生の終わりに来てしまったかのように絶望的でした。その時の私は、若さがなく疲れ果て、体はボロボロで、多くの債務を背負っており、一番耐え難いのは病業でした。幸いなことに、師父と大法は私を見捨てませんでした。宇宙大法は、努力家の私の人生をこのままでは幕を閉じさせないと信じていました。私は、しばらく仕事から離れ、心を静めて法を学びました。当初は強い執着心がありましたが、師父の寛大なる包容力が私を悲観の暗闇から救い出してくれました。正しい人間になろうとする正念、大法弟子の責任感によって大きく成長できました。

(続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/1/20/252062.html)     更新日:2012年1月30日
 
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