日本明慧
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人の観念を捨て、病魔の関を乗り越える
文/河南省の大法弟子
私は1998年から法輪大法の修煉を始めた83歳の老年弟子です。法を得てから今日に至るまで、大法と師父を堅く信じて、終始動揺することはありませんでした。毎日時間があればすぐ学法しています。師父が正念を発しなさいと私たちに説かれたときから今日に至るまで、一日4回の発正念を基本的に中断したことはありませんでした。私は縁ある人に会えば真相を伝え、「三退」を受け入れるとすぐに共産党の組織から脱退させました。すぐに脱退しない人には、自分が大法を修煉してきた体験談を伝え、彼らに大法の素晴らしさを知ってもらいました。そして人々の背後に隠されたマイナスの要素を取り除き、機縁が熟すときまで待てば、後で彼らを救うことができました。年をとるにつれて日常の雑事も少なくなり、毎日学法することができるようになりました。5式の功法も途切れたことはありませんでした。2005年から今日まで、私は煉功するとき入静することができます。特に静功を煉るとき、いくつかの動作、合掌、出定などはみな自動的な機制に従って動きます。
しかし、このような状態にもかかわらず、私は長い間、病魔に見舞われてどうしようもありませんでした。のどが痒くなり、偏頭痛も時々おこりました。特に2006年以来、私の両すねに皮膚病のようなできものができて痒くなり、発症時には非常に耐え難いものでした。しかし、私はいつも「業を滅する」現象だと思っていたので、消極的に我慢し、長い間医者に診てもらったことはなく、薬一粒も飲んだことはありませんでした。しかし、誰かが私のような症状になったとき、民間の処方で治ったと聞くと、私はすぐ試しました。しかし、どんなに効き目があるという処方も私には効きませんでした。時にはそれは病気ではないのだと思いますが、心の中ではいつも方法を探してそれを治そうと考えていました。これは心性を高める機会だということを、私は考えつきませんでした。そのためこの症状が発生したときも、仕方がないと感じるだけでした。それから、何年経ってもその症状はますます重くなる一方でした。
最近、改めて先生の経文の『道法』を勉強したところ、自分の病気や業力に対する戸惑いや勘違いを認識させられました。師父は『道法』でこう言われました。「長きにわたって大法(ダーファ)の中にいる衆生、特に弟子には心性を向上させる上で、ずっと法に対して異なる次元での誤解があります。魔難が訪れるたびに、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこの一点を利用して尽きることのない妨害と破壊を行なっていて、修煉者は長期にわたり魔難の中に陥っています」
この経文を勉強した後、私は内に向けて探し、自分がまだ人心を捨てていないことに気づきました、やはり人間の観念が働いていたのです。これらの魔難を当然だと見なし、どうしようもないという消極的な状態を生み出していたのでした。修煉者が遭遇する全ての魔難や出来事に対しても、人間の面から法を認識するのではなく、必ず法の上で法を認識しなければなりません、我々大法弟子は決して旧勢力の按排した魔難の中で修煉してはなりません。我々は旧勢力の全てを否定し、衆生を済度する過程の中で修煉しています。私たちは困難を乗り越える勇気を出して、苦痛に耐えますが、しかし、それは旧勢力の按排を認めるのではありません。私は暗唱できるまで、「道法」を繰り返し勉強しました。
それから私は、病魔に攻められて痒くなったとき、掻かないで我慢し、絶対にそれらのものを認めませんでした。しかし、我慢すればするほど全身が痒くなり、悪くなる一方で、それは本当に言葉に表現できないほど辛いものでした。私は痒くなったももに出た腫れ物を摘んで、「忍び難きは忍びうる。行い難きも行いうる」(『転法輪』)を暗唱し、『道法』を暗唱しながら「痒みよ去れ」という一念を発しました。こうして3日間堅持したところ、症状が著しく和らいできました、当時数日間、通常の学法のほかに、夜目が覚めたときに『道法』を暗唱しました。こうしてももに出た腫れ物は次第になくなっていき、22日後に症状が殆ど消えました、偏頭痛も起こらなくなりました。
私はこう悟りました、法の上で法を認識し、人間の観念を放棄し、正念を持ってすべての魔難に対処しさえすれば、大法は神威を見せてくださるのです。
以上は、私の修煉過程における、ほんの僅かな体験です、法に沿わないところがありましたら、指摘してください。合掌。
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