師父がネット中毒から私を救ってくださった
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年2月6日】ネット中毒は恐らく麻薬中毒の次ぐらいに、止めるのは難しいでしょう。遺憾なことに、60歳を超え、一人暮らしをしている大法弟子の私は一時、常人のようにネットにはまりました。それに、コントロールされたように、一日も欠かしませんでした。毎日最低4~5時間、長い場合16時間もネットにへばり付き、何でも見ます。学法にも煉功にも支障をきたし、補えるときもあれば、できない時もありました。それが間違いだと知りつつ、私は今日後悔し、明日また同じことを繰り返していました。

 ネットに入れば不安がり、自責もします。私はよく自分に命令を下しました。「今日は30分を超えてはいけません!」そう言って、結局4~5時間経ってもネットから下りません。私は再三に師父に謝りましたが、しかし「ネットを使わない」という約束をせず、ただ「できるだけ少なくネットを使う」としか言えず、非常に心苦しかったのです。

 今年1月16日の朝9時頃、私は妹と一緒に列車でA市に用事を済ませに行って、夕方6時頃に帰宅しました。私は荷物を置いて、手を洗い、さっそくコンピュータを付けて昨日読み終わらなかった小説を探し始めました。それから12時間、私は翌朝の6時頃までずっとそこに座っていました。二回ほど発正念のためにコンピュータから一時離れましたが、それ以外の時間は、ずっとそこに座っていました。一睡もしなかったものの、全く疲れもなく眠くもありませんでした。

 7時頃ベッドに横たわり寝ようと思った時、私は泣きました。「師父、私はこれにはまってしまい、どうすればいいでしょうか? 助けて下さい」

 9時ごろ、妹から電話が入りました。彼女が言うには、昨日走ったせいで疲れ果てて、体中が痛い……私は心がギクッと感じました。「師父、ごめんなさい。私にこんな健康な体を下さったにもかかわらず、私はそれを大切にせず、無駄なことに体力を使いました、本当にごめんなさい」。私は再び、寂しさに関する師父の説法を思い出しました。私が悟ったのは、寂しさは心の魔です。大法弟子はそれにコントロールされてはいけません。修煉者は心に法があれば寂しく感じるはずがありません。深く掘り下げていくと、私は自分の学法が少なく、着実に修煉しておらず、衆生を救うことを自分の使命とせず、自分自身のことに陶酔する情に陥っていることに気づきました。

 私はネット中毒から抜け出せるよう師父に加持を願い、同修と交流しました。同修はこう言いました。「あなたは毎日、あんな汚いものを体の中に注ぎ込んでどうしますか?」。そうです。師父が私の体を浄化して下さったことが無駄になるのではありませんか。私はこのネット中毒を一つの執着として取り除いてみようと決心しました。

 18日、部屋に入るとまたネットを見たくなって、私は「做すところ至るは是れ修なり」[1]を思い出し、自問しました。「今日だけでも我慢できませんか?」私は学法に戻り、煉功、発正念を行い、この一日を我慢しました。19日、突然「柳暗花明又一村」のように、私はネットに興味を感じなくなりました。師尊、感謝いたします! 感謝いたします! と心から叫びました。ここ数日、本当に気持ちがいいです。心が落ち着かず、自分を責めたてる焦慮もなくなり、三つのことを実行できる時間がたっぷりできて、雑念が少なく、視力も大きく改善されました。

 22日、私は老眼鏡なしで『轉法輪』を読めて、今のこの交流文章も老眼鏡なしで書いています。以前なら、これは不可能に近いことです。

 もちろん、今後ネットを一切使わないということではありません。仕事や生活上、特に大法を実証し、真相を伝える需要がある時以外、私は二度とネットを用いて自分の暇つぶしはしません。ネットを利用する際、私は二度と心の魔に左右されません。

 ほかにも、寂しさに困惑する同修がいると思いますが、そこを突破して下さい! 大法弟子自らが求めなければ、どんなことも私たちを困らせることは出来ません。師がいらっしゃって、法があるからです。

 法に沿わない部分があれば、同修のご指摘をお願いします。

 師父に感謝致します。合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/1/28/303737.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/2/6/148244.html)
 
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