必ず自分を修めるべき
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文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2015年1月19日】師父は説法のなかで、「多くの人が関に遭うとき、皆さんの言葉で言うと、それは『病業の関』だったり、何かの厄介なことだったりするとき、自分の執着を見つけることができず、考えても分からず、何が原因なのか分からないのです。皆さんに教えますが、大法弟子は決していい加減に対処してはいけません。間もなく乗り越えるこの関ですが、もうすぐ乗り越えそうなのに、まだある執着を取り除くことができなければ、基準に達することができず、乗り越えられないのです。修煉が良くなったら乗り越えられるのではありませんか? どうしても乗り越えられず、いつも同じところで止まっています。しかし、あの問題は大したことがなく、あの執着は大きなものではなく、非常に小さいのですが、それに気づくことができなければ、乗り越えられず、いつまでたってもそこに止まっています。これはあなたの修煉がよくできていないと言っているのではなく、あなたは真剣に考えず、これらのものが修煉に符合していないと気づいていません! 修煉者の状態に符合していなければ、修煉者としてあるまじきものであれば、それは問題なのです!」[1]と説かれました。

 この部分の法を学んでからの自分の理解を同修の皆さんと分かち合いたいと思います。いかなる事であっても、それがトラブルであって、順調に進まない場合、ただそれを旧勢力の妨害だと思い、それから発正念して妨害を取り除くということだけでは、十分ではないと思います。妨害が発生したのは、自分に執着があるからで、その執着を探し出して取り除かず、妨害を理由に、自分に向けて探すことを意識できなければ、そこで止まってしまいます。その時間が長びくと、乗り越えられなくなり、また自分の正念を弱めてしまう可能性さえあります。

 1999年の迫害が始まる前、いかなることであっても、私達は必ず自分に向けて探しました。迫害が発生してから、旧勢力の妨害というものを知るようになり、どうすればよいのかよく把握できなくなりました。私が思うには、私達はみな「旧勢力を認めない」という法理を知っています。口ではみな旧勢力を認めないと言っていますが、実際、具体的に行う際には、どうすればよいか分からない状態のときがあります。自分に向けて探すことは、以前と何も変わりがありません。問題が現れたら、まず自分に向けて探します。妨害があるのは、必ず自分に執着があったからです。いかなることも偶然ではありません。旧勢力の妨害の有無にかかわらず、私達はみな内に向けて探しながら向上すべきです。これは旧勢力と何の関係もありません。自分の執着が見つかり、それを抑制し、排斥し、良くない考えが浮かんできたら、発正念でその良くない念を根絶します。執着がなければ、旧勢力は妨害することができません。彼らには為す術がありません。

 もし、どんなことであっても、しきりに発正念だけをし、妨害があったら、それを認めずにいても、自分を修めることを軽視し、自分が向上できなければ、その妨害は存在し続けます。私は同修の皆さんに今後どんな妨害が現れても、真っ先に自分にどんな執着があるのか、よく探すよう提案します。妨害が発生した際、私達は往々にしてまず他人を非難します。それは主に自分の執着心が刺激されたからです。私達はみな執着を持っています。ただみな自分の心の中で自分の思惟がはっきり分かっています。他の人がどのように考えているかは分かりません。私達がみな自分を修め、向上できれば、妨害も少なくなります。

 一部の同修は亡くなりました。それは全体と関係ないとは言えません。このような時、亡くなった同修がああだこうだと議論するのをやめましょう。人は逝ってしまい、その同修に何を指摘しても作用がありません。私達は正面から教訓を汲み取るべきであり、自分の事に気をつけるべきです。もし絶対やってはいけないことをやったら、勇気を持ってそれを認め、直視すべきで、ずっと修め切れていない執着は必ずなるべく早く修めるべきです。修煉は厳粛です。機会は一回しかありません。失ったものは再び来ることはありません。私達がみな向上できれば、その時、発生した悪いことは良いことに変わります。

 もちろん誰も同修が亡くなることを望みません。しかし、このような事が発生したら、それは自分に対する試練であり、そこでいかに自分の心性を向上させるのかという事がとても重要です。私達の中でも、ある人は理解できず「どうしてこうなるのか」と言わんばかりであり、またある人はまったく無関心で、またある人は「亡くなった同修がいかに良く修めていなかったのか」と思います。そう思えば、向上できないばかりか、自分の正念まで打ちのめし、他人を非難し、外に向けて見るという人心を助長します。旧勢力は同修が亡くなったことについて、私達の心性が正しくないことを口実に、絶えず機会を見つけては、同修を亡きものにします。この損失は更に大きいのです。

 個人の次元での悟りであり、法に則っていない部分についてはご指摘願います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/22/300582.html)
 
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