小さな関が生死の関になって体得した教訓
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年11月28日】私は1996年、通っていた高校の国語の先生から1冊の『轉法輪』をいただきました。一気に読み終えた後、その中で師父が説かれている法理に感銘を受け、私は現世で何を求められているのかが分かりました。

 その時から現在まで、私は風雨の中で20年間修煉してきました。1999年、北京へ陳情に行き、不当に拘禁されました。そのために退学処分となり、故郷を遠く離れ、放浪したことがあります。この20年間、私は師父に従って歩んできましたが、後悔したことはありません。もっとも苦しい時、もっとも疲れた時、私は師父を思い、法を思いました。師父のご加護がなければ、私は今日まで歩んで来ることはできなかったでしょう。

 修煉当初から、私はタバコを吸わず、酒も飲みませんでした。しかし、食べることに対しては特に強く執着していました。他の人が何切れかの肉を食べるのに対し、私は1鉢の肉を食べてしまいます。師父は他の人の口を借りて何度も私を教え導いてくださいました。私自身も肉を食べればお腹が痛くなります。しかし、気がついても改めようとしませんでした。これは本来、修煉の初期に取り除くべき人心・執着心です。

 20年間、改めないまま引きずってきたこの小さな関が、生死にかかわる関になってしまいました。

 先月、同僚の祝いごとがあり、食べ過ぎた私は翌日、左半身が動かなくなり、身体を起こすこともできず、話すこともうまくできなくなりました。長年修煉してきて、なぜ今になって病業の関に遭うのかと不思議に思いました。私のために発正念をしに来た妹(同修)は、すぐに私の肉に対する執着と動功を煉らないことを指摘しました。妹が話している最中に、突然、猪八戒のイメージが私の脳裏に浮かびました。猪八戒はさまざまな執着を取り除いていなかったため、成果を得ることができませんでした。私は猪八戒になりたくありません。私は直ちに今日から肉を一切食べません!

 私は早速師父の説法のテープを聞き始めました。翌日、なんとか立ち上がることができ、3日目には足を引きずりながら出勤しました。仲の良い用務員は私を支えて事務室に行き、またこっそりと車で私を病院に送ろうとしました。車のエンジンがかかった時、私は考えました。「私は修煉者なので、病院へ行くことはできず、師父に加持をお願いすべきだ」。生死を前に師父と大法を思い起こしました。私は4日目に正常に歩行できるようになりました。

 私は気づきました。以前の修煉状態の良し悪しにかかわらず、執着心に気付いたら直ちに取り除くべきです。積み重ねないで下さい。そうしなければ、小さな関が生死にかかわる関になってしまいます。一つ間違った念を起こせば、すべてが台無しになってしまいます。以前、母も着実に修煉せず、病業によって命を奪われました。

 その後、私は肉を一切食べません。周囲の人も私の変化に驚き、多くの人は私に「栄養不良を避けるため、少量でも食べるべきだ」と助言しました。法理から私が悟ったのは、真に修める人は肉を食べないからと言って、栄養不良になることはありません。

 私は師父の法理に敬服し、とても若い時から修煉を始めたので、病気治療のために始めた多くの高齢者とは違います。これが私の修煉の漏れでした。つねに優越感に浸って、小さいと思われることを重視してきませんでした。しかし、修煉はまさに執着心を取り除くことで、どんな執着心でも取り除かなければ駄目です。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/20/337131.html)
 
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