明慧法会|協調と協力(二)
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文/中国の大法弟子 紫菂

 【明慧日本2015年2月4日】(前の文へ

 二、黙々と円融して自分を厳しく律するが 他人を変えようとしない

 『更なる精進を』の新経文を手にとって、「目にした不足を黙々と良くすることができれば、神々は敬服しきれません。この人が本当に素晴らしいと言うのです! これこそ、大法弟子が行うべきことです」を読んだ時、「黙々と」の文字が絶えず私の目に飛んでくる気がして、「黙々と」が、これから私の修煉の方向だと悟りました。

 すぐに試練がやってきました。当時、現地では「第一協調人」のことをめぐってざわついているところに、突然ある日、同修のDさんが激しい態度でみんなの前で私に対する人身攻撃をしました。ふだん自分の名を求める執着心が招いた攻撃だと分かって、突然やってきた打撃に私は平然と直面して、心の中で『米国中部法会での説法』の中の言葉、「いかなる心も動じなければすべての変動を制することができます」としっかり覚えました。

 しかしその後、更なる嵐が襲ってきました。現地の各協調人はなぜか私の修煉状態を心配して各種の誤解、疑い、分析が絶えず飛び回り、一組また一組の協調人が話しに来て、「消極的なのは良くない」、「怒ってはいけない」などと言って、私は訳が分からず、何を言えば良いか分かりませんでした。あるプロジェクトが順調に進んでいない時、私が「きっと消極的にプロジェクトを破壊している」と疑われます。また、電話の安全面の問題、異性の修煉者が単独で一緒に大法の仕事をするのは適切か、大法を乱す人に対して現地の修煉者はどのような態度を持つべきか、どのように全体を形成するかなどなど、各方面において私は他の協調人と意見が異なります。毎回私は善意を持って自分の意見を一回しか言いません。多く言ったら聞く側にプレッシャーをかけることになると配慮しているからです。しかし同修たちは私を「消極的」、「心が狭い」、「思っていることを素直に話さない」と批評しました。もともと私が思っていないことをたくさん私に押し付けています。その頃、私はよく三国時代の曹植(曹操の息子)が兄に書いた、あの有名な漢詩「本是れ同根に生ぜしに、相ひ煎(に)ること何ぞ太(はなは)だ急なる」(元は同じ根から生まれたのに なぜ互いに争わねばならないのか)を思い出します。兄は弟の曹植の才能を嫉妬して殺そうとし、曹植はその詩を書いて、兄弟なのになぜ殺し合うのかと訴えたのです。同修は一緒に修煉する同士なのに、なぜ皆さんは私をこんなに追い詰めるのか、と私はその頃よく思いました。

 そのようになったのは自分にきっと原因があると分かっていても、突然に異変した環境に対して私はやはり人心が生じました。最も私を悩ませたのは、同修のDさんに対して私の印象がますます悪くなっていることです。そのトラブルが発生する前にDさんは私がたいへん信用していた協調人だったのです。

 今回のトラブルを通じて、修煉はそんなに簡単なことではないと、はじめて痛切に感じました。邪悪を恐れず盤石のように揺るぎない心を持っているだけではまだ足りなくて、大法弟子の間も常に和気藹々の状態ではなく、修煉者は人間であり、人心が生じる時は黒い雲で覆われるほど不如意な状態が続出する、とはじめて分かりました。では、私はどのように対処すべきか、自分の修煉のどこに問題が出たのか、このような状況下で私はどのように黙々と周囲の同修の不足を円融していくべきでしょうか?

 学法して内に向けて探し、私は師父の啓示と加持を感じました。私は自分に対する褒め言葉を聞きたく、異なる意見などを聞きたくない執着心が見つかりました。それは修煉者をはかる基本的な基準であり、その執着心を長期にわたり取り除いていないため、私はますます心が狭くなり寛容できなくなっていました。今回のトラブルが絶えずエスカレートするのは実は虚像で、同修たちの悪い言動も虚像で、私に心性を向上させるために演化された虚像に過ぎません。

 それが分かってから、私は直ちに行動しました。その時、発正念すると心を完全に静めることができないため、私は大声で「私は旧勢力のいかなる按排も認めず、同修たちに現れた虚像も認めず、私はただ師父が按排してくださった道だけを歩みます! 私の同修たちは偉大な生命で、皆素晴しい人です! 私と同修たちは一つの全体です」と心の中の雑念が全てなくなるまで私は繰り返し叫びました。いつの間にか、涙がとめどなく流れてきました。

 後日、多くの農村部の修煉者と交流する時、私は初めて「素朴」、「謙虚」という言葉の意味が理解できました。同修たちは鏡のように私の不足を映しだしました。それはつまり自惚れる、いつも(相手の立場でなく)自分の角度だけから問題を見て、また自分だけが法理に適っていると思い、少しも自覚しません。浅はかで、自分は世間の表面上ではしっかりやっているようにみえても、修煉の根本は内に向けて探すことだということを忘れていました。それは肉眼で見えないし触ることもできないものですが、それこそ最も実在していて、限りない威徳を備えるものです!

 心を静めて学法して内に向けて探すことに従って、私はまた自分には「相手のため」「相手の立場に立って物事を考える」思いやりがないと気付きました。気付いた後、師父が『轉法輪』で説かれた「実は物質と精神は同一のものです」の意味を体得しました。その一瞬から私の考え方はすっかり変わって、以前持っていない、より善意により寛容に物事を見ることを覚えました。そして突然に、特別なことをしていなくても私は同修たちを理解できるようになり、同修たちの気持ちをも理解できました。

 また後日、自分の根本的な私心、つまり自我を守りたい、自惚れる心に気付きました。私心という物質は宇宙の中で最も不潔で変異した生命であり、私心は私の色欲心と嫉妬心を招いたのです。そんなに悪い物質を持って私はどのように大法に同化できるのか、どのように修煉において向上するのか、向上できなければやっている「三つのこと」の価値も下がるのではないでしょうか? 自我を取り除くことができるかどうかは、師父と大法を尊敬しているかどうかをはかる基準ともいえます。

 いわゆる旧勢力は何物でもありません。私には宇宙の大法があって、最も有効な方法――「内に向けて探すこと」があるため、修煉者は自動的に自分を正して更新させ、浄化させることができます。旧勢力が按排したすべては、ちょうど大法弟子を成就させるように師父に利用されているのです。

 私は何度も師父に感謝し、同修たちに感謝しました。私の心は落ち着いていて、ついに「黙々として」の文字の背後の強い力と深い内包を理解できました。それはその境界での自然な状態で、言い表したり証明したりする必要もありません。そこで、いかに自分を言い表すか、いかに自分の無実を弁明するか、ということをしなくなりました。また、同修の言行に問題があると思う時、私は直ちに自分の意見を言うのでなく、相手が穏やかになった時に一緒に切磋琢磨して、相手を変えようとせずに相手の考え方を尊重します。実は、その時に私の言った話はすべて同修に気持ちよく受け入れられたのです。

 またその後、同修たちと物事の見方が異なる時でも、互いに協力することが支障なく行われるようになりました。互いに落ち着いた時に私は穏やかに自分の意見を言い出したり、あるいは黙々と同修のために発正念したりします。整っていないところを目にしたら、黙々と円融するべきだと思います。整っていないところが見えるのは、きっとそこに私の修煉すべきことがあるからです。

 今回、地元の修煉体験交流会に際して、私は黙々と他の協調人と一緒に多くの仕事をしました。原稿の質がとても肝心なため、私は面倒がらずに多くの同修に交流会の意義を伝えて、どのように筋が立つ原稿を書くかも検討しました。ふだんしっかり三つのことを行っているが文章を書くことが不得手な同修、特に年配の同修に対して、彼らに口述してもらって、私が文章に整理しました。農村部の同修のEさんの家に私は何度も何度も訪れて彼と交流し、最後にEさんは交流原稿を書こうと決心しました。それからEさんの発表は熱烈な拍手を博しました。その日の交流会に私は参加できませんでしたが、交流会のためにずっと黙々と発正念して、自分のするべきことをしました。いろいろ行っているうちに、修煉者の人心を除去させるために師父の一歩一歩の苦心を込めた按排をつくづく感じました。

 私は必ず修煉の機縁を逃さず、ただ精進して師恩に応えたいと思います。再度、慈悲なる師父に感謝します! 貴い同修の皆さんにも感謝します!

 (完)

 (明慧ネット第11回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/8/299612.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/11/9/146775.html)
 
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