ネットで真相を伝えるプロジェクトで人心を取り除く
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2014年8月30日】最近、苗栗地区では、ますます多くの年配の同修達が、ネットで真相を伝えるプロジェクトに参加しに来ています。同修の皆さんが、毎週列車に乗り、強い日差しの中を、さらに駅からも歩いて、はるばる拠点に技術を学びに来られる姿を見ると、とても心を打たれます。常人のほとんどは流行を追いかけ、欲求を満たすためにスマートフォンやタブレットPCを買っていますが、大法弟子の場合、年齢・金銭・距離等……様々な困難を乗り越えて行っているその目的は、人を救い済度するためです。私もプロジェクトの中に身を置きながら、内に向けて探すことを通して、次第に多くの人心を取り除きました。

 私が初めて台中基地に、ネットで真相を伝える技術を習いに来る前、私の体に病気の兆候が現れました。その時、私はその予約した日程をキャンセルしようとしました。しかし、同修である母は、「必ず行くべきです。邪悪が妨害するほど、その重要性と必要性があります」と言ってくれました。私は師父のこの按排と母の言葉に感謝しました。また自分自身、この機会をしっかり掴むことができ喜んでいます。そのおかげで、今ようやく自分はパソコンを使って同修に協力することができ、また関連する技術サポートを提供することができるようになりました。

 ネットで真相を伝えるプロジェクトを通して、私は自分のたくさんの執着と人心に気付きました。最初の頃、私は先に相手と良好な友人関係を作ってから、時機が来たら、真相を切りだすという手法を取りました。私は出会ってから直ちに真相を伝えると相手が驚いて逃げてしまうのではないかと心配して、いつも雑談ばかりして、なかなか真相を切り出せませんでした。常人の友情に多くの時間を費やしても、真相を伝えて三退を勧める肝心なところになると、結局、相手は私を友達リストから削除してしまいました。このような状況に、私はとても無力感を覚え、とても傷つけられ、消極的な考えすら生じてきました。絶えず内に向けて探した結果、私は自分が他人に理解されないことを恐れて、情を持って問題解決をしようとしている心に気付きました。私は法理から、「情というのはもっとも信用できないもので、私は時間を切り詰めて、正々堂々と真相を彼らに伝えるべきだ」と悟りました。なぜなら、暴かれるのを恐れているのは邪悪の方です。大法弟子は受動的ではなく、主導的になって、すべての機会を掴み、早く彼らに真相を伝えるべきで、相手の思うままに動かされるのではなく、知恵を持って相手を誘導すべきだと私は思いました。

 また、消極的な気持ちのため、友達リストの中の人に挨拶をするだけで、真相伝えは次回に回そうと思ったりもしました。その結果、しばらく経つと、アカウントが取り消されていた事もありました。今、天災や人災がこれほど多い中、もしかしたら自分が消極的であるために、これらの人たちがたった一回の救われるチャンスを逃してしまうかもしれません。私は接するすべての人に対して責任を持っており、決して形式的に、いい加減に対応してはいけないと思いました。

 ある時、一人の同修は私のパソコンに対する解説に非常に不信を抱きました。そして、私の目の前で、もう一人の同修に、私に対する疑いを問いただしました。その時の同修の言葉は、私の頭を直撃しました。私は何にもできず、不公平だと思い、何とも言いようのない気分になりました。しかし、その後、自分の内に向けて探しました。今まで、私はいつも自分の努力と成果を見てほしい、自分の能力を認めてほしいという気持ちが強く、今回同修に疑われた事は、まさに私のこの隠れている人心を直撃しました。自分にこれほど強い名利心があるのだと、はじめて分かりました。人を済度するには心を純粋にし、どんな時でも必ず自分を実証するのではなく、法を実証する心を持っていなければ、人を済度する力が弱くなると思いました。

 真相を伝え始めた頃、私はいつも腹が立ったり、興奮したりして、文字を入力する時も力が入り、もう少しで相手と喧嘩しそうになる事がありました。修煉する前の私は、家では「武則天皇」「小皇帝」と呼ばれていました。法を得てから私は、怒りっぽい、短気などのマイナス的なものは、すべて生まれてから身についたもので、本当の自分ではない事が分かりました。私はこの悪い部分を認識し、排除しなければならないと思いました。しかし、道理をわきまえない、振る舞いの下品なネット友達に出会うと、私の横暴な態度がまた出て来ました。試練が一回また一回と目の前に現れて来ました。私はそれを自分の魔性を取り除くよい機会だと捉えました。そうすると次第に、私の怒りっぽい魔性は、理性と平和な気持ちに取って替わりました。

 ある時、私は1人の振る舞いが軽はずみな若者に真相を伝えました。彼は「もし脱党をしてやれば、何かしてくれるのか」と言いました。私はまた怒りが込み上げてきました。私は「あなたを救おうとしているのに、どうしてあなたはこんなに横柄なのか」と思いました。すぐに、私はこの良くない一念を排除して、彼に「溺れている人が、手を伸ばして救おうとしている人に、そんな取引のような事が言えますか? 命が救われるのは一番ではありませんか」と言いました。それを聞いた若者は二つ返事で脱党を承諾しました。私は自分の経験から、真相を伝えることは、顔を赤らめ首に青筋を立てて言い争って、勝負するのではなく、善を持つことによって、初めて人を救い済度することができると理解しています。

 時々、私達は自分の好き嫌いで人を選んで真相を伝えています。怖い顔をしている人、或いは言葉づかいの悪い人に対し、敬遠したり、分別心をもって対処したりしがちです。しかし、法理から考えると、好きとか、嫌いとかはすべて「情」で、情を持って物事を進めると、清らかにはならない事が分かります。このような例がよくあります。怖い顔をしている人は真相が分かって、脱党するのですが、一方、上品そうな顔をした人は、私がいくら話しても説得できません。師父は「大法弟子とは何か」の中でおっしゃいました。「衆生を救い済度し、真相を伝えることに関して、多くの人は深く入り込んで行なっておらず、相手にちょっとだけ説明して、聞いても聞かなくてもさほど気にせず、聞かないなら、またほかの人に説明しにいきます。何を行なっても、首尾一貫して、しっかり行ない、人を救うなら相手が救われるようにすべきです。皆さんの前に現れた以上、選択することはできません。人を救うときに選んでいれば、それは間違いです。出会ったすべての人を救うべきです。相手の身分、階層に関わらず、大統領でも乞食でも同じです。神から見れば、生命は同等であり、階層は人類社会が決めたことです」

 師父の法からみてみると、私達が条件を選んで、人を選んで救う背後には、人心が働いている事が分かります。入って来る衆生はすべて縁のある人で、私達は、ただひたすら人を救うべきです。言葉づかいの悪い人は、少なくとも会話の機会を提供してくれるのです。私達は彼の殻を一層一層と破り、彼を阻害している部分に対して真相を伝えて行けば、かえって彼の考えを転換させ、それによって、彼は救われるかもしれません。

 (台湾の大陸に真相を伝える交流会で発表)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/16/296067.html)
 
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