【明慧日本2016年5月18日】 以前、私は現代実証科学の影響で、因果応報などを信じていませんでした。しかし、自ら経験したいくつかのことを通して、「因果応報があり、善には善の、悪には悪の報いがある」について新たな考えを持つようになりました。
数年前、私は一度離婚しました。以前の私は気性が激しく、人を思いやることができず、常に自己中心的に物事を考えていました。前夫の仕事は私より忙しく、残業や出張もとても多く、時には食事も睡眠もろくにとれず、私と一緒にいる時間はなおさらありませんでした。しかし、私は理解できず、寂しくてよく夫と喧嘩しました。結局、お互いに疲れ果ててしまいました。特に夫は仕事を休むことができず、疲労を回復させる時間がありませんでした。
今考えると、夫に対してとても気の毒に思いますが、以前の私は極度の自己中心的で、意識することすらできませんでした。逆に自分の方が被害者で、可哀そうだとさえ思っていました。結局、夫は耐え切れず、私を避けて家に帰らなくなり、私も我慢の限界でした。そこで、私たちは離婚の道を選びました。
離婚してしばらくの間、私はずっと前夫を憎んでいました。その後、幸いにも法輪大法の修煉を始め、修煉者として成すべき法理が分かり、夫への恨みを放下しました。今、私は他人のために考え、人と優しく接し、寛容な心で物事に対処できるようになりました。そして、私は再婚し、幸せな家庭を持つようになりました。しかし、作った業を返さなければなりません。
現在の夫はとてもいい人で、私を愛してくれていますが、以前の私のように性格が悪く、怒りっぽく、自己中心的です。小さなことでも激怒して怒鳴り、時にはとても聞きづらい言葉も口にすることがあります。何回か我慢の限界に至って、もう少しで再び離婚しようと思った時、師父の教え「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで」[1]を思い出し、自分は修煉者として「忍」を全うすべきだと分かりました。しかし、一生懸命夫を思いやる私に対して、夫はなぜあんな態度をとるのかと理解できませんでした。
ある日、『轉法輪』を拝読していて、疑惑が解けました。師父は「人間は迷いの中で悪いことをしかねませんが、佛教ではそれを因果応報と言っています。 人間に何か魔難があり、良くないことが起きた時は、すべて因果応報の中で、業を返しているのです」[1]と説かれました。
私は直ちにすべて分かりました。現在の夫はまさに以前の私のようです。夫は私の仕事の苦労を理解せず、帰宅後に私に食事もさせず、眠らせず、怒鳴り散らします。中傷することもあり、私が前夫にしたことと同じです。これはつまり、因果応報にほかありません。私は前夫を傷つけましたので、今の夫が同じ方法で私に返しているのです。
因果応報を体験することにより、自分が作った業を返す以外に、辛いことをされることで、その辛さを味わい、他人を理解し、寛容な心で対処すべきことを学ばせているのだと思いました。もちろん、私は修煉者ですので、前夫のように逃げたりはしません。やり返すことはなおさらいけないことで、2人とも傷つき、新たに業を作ってしまいます。同じ過ちを二度としたくありません。
そこで、私は夫を恨まず、受け入れることにしました。そして、寛容な心で夫を許し、夫も自分の行動を反省しました。最終的に私たちは仲直りして、幸せをしっかり守りました。
私は自ら二度の結婚を経験して、因果応報は真実であることを実証しました。よく観察すれば、このような因果応報は至る所にあると誰でも気づくことができます。偶然なことはありません。したがって、悪いことがあった時、さらに大きな不幸に遭わないよう、善念をもって、善を成すべきです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』