文/山東省の大法弟子 王新宇
【明慧日本2016年3月26日】
師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私がみなさんと交流したいのは「同修と協力して三つのことを行い、お互いがぶつかってしまった時に、どのように自我を放下し、お互いに心を込めて内に向けて探し、心性を向上させる機会とするのか」ということです。
昨年の9月、Aさん、Bさん、Cさんの3人の同修が学法グループを成立しました。そのグループは真相を伝えるチームを兼ねており、同修のこの行為に私は心から嬉しく感じました。なぜなら3人の同修の1人は表に出て活動を始めてまだ1年半でした。もう1人は法理については明晰なのですが、情にひどく影響されやすく、そのため一日中いつでも家庭のことで忙しく、60歳前後ですが仕事をしていないにもかかわらず、真相を伝えることはあまりしていなかったのです。師父が何度も悟らせようとなさったのですが、外に出て行こうとしませんでした。学法グループを成立したことは3人の同修にとって大きな前進となるはずで、私はひそかに喜んでいたのですが、喜びの陰にはわずかですが言葉にできないしっくりこない何かがありました。
ある日、私はBさんに「あなたは誰と真相伝えに行くのですか?」と尋ねました。Bさんは「誰かが私に声をかければ、私はその人と一緒に行きます」と答えました。自ら学法グループに参加するようになってから、Bさんの心性は向上し、昼間はいつも三退を勧める資料を配りに出かけていました。私は3人の同修に遅れを取っているという感覚を感じていました。大法を実証するために行わなければならないことは他にもたくさんあったのですが、私は3人の同修と一緒に真相を伝えに行きたくなったのでした。そこで次に3人の同修に会った時、いつか時間ができた時に一緒に真相を伝えに行きたいと話すと、同修は隠し立てをするかのように「一緒に行くのは2、3人までで、それより多かったらダメですよ」と言いました。そこで私が「2組に別かれて行けばいいでしょう」と言いましたが、3人の同修は声を出しませんでした。
家に帰った後、「彼らは私に参加してほしくないらしい・・・」と思いましたが、思いを晴らす方法が見つかりませんでした。次の日、神韻公演DVDを作りたかったのですが、私が持っているキヤノン4900ドライブにはDVDを作る機能がなく、私はキャノン4200ドライブを持ってきて、そのドライブをWindows7とWindows8システムにインストールして、インストール成功後、プリント操作を実行した時に「互換性のある互換プリンターが見つかりません」というメッセージが現れました。
仕方がないので、また私はAさんの家に行きインストールしましたが、その時はまだ「私に参加してほしくない」という同修に対する思いが晴れていなかったので、ドライブをインストールしていた時に再びAさんに「あなたたちは何人で真相を伝えに行っているんですか?」と聞きました。Aさんは私に答えなかったばかりでなく、さらに「みんな話したがっていないのに、どうしてあなたはわざわざこの事を聞かなければならないんですか?」と言いました。私は「今がどういう時期だかわかっていますか? こんなに良いことを秘密にする必要がどこにあるのですか。あなたたちが真相を伝えに行った経験をみんなと交流してはいけない理由があるのですか?」と真っ向から反論しました。そして、Bさんが私と一緒に真相を伝えに行きたがっていない、ということをAさんに話しました。するとAさんは声を上げて「Bさんがどうしてあなたに行かせたくないのかわからないんですか?」と言いました。私はAさんと口論になりました。Aさんは「あなたはすぐ口論したがりますが、あなたのその心はお見通しです。協調人の中にはどんな事でも状況を尋ねたがり、どんな事でも自分の手に握りたがる人がいるのです」と言いました。
私は負けずに「あなたは本質が見えているんですか? この事は、尋ねたいとか、尋ねたくないとかという問題ではなく、あなたの認識は根本から違っています」と言いました。これ以上口論しても何も変わらないと見て、私は話すのをやめ、Aさんも話すのを止めました。私は引き続きAさんのパソコンのインストールを行い、インストール成功後、プリントを開始すると、パソコンは依然として「互換性のある互換プリンターが見つかりません」というメッセージを表示していました。どういうことでしょうか! とんだお笑い種でした、以前、このパソコンに4200のドライブをインストールをした時は、キャノン4980でプリントして、ちゃんとプリントできたのです。今はキャノン4880のドライブに4880のプリンタをインストールしてどうして「互換性がない」などというメッセージが出たのでしょうか?
Aさんの家を出た後、もしかしたら師父が私たちに何かを悟らせようとしておられるのかもしれないと思い、Aさんの家に戻ってきちんと交流してみることにしました。しかしAさんは「私はDVDを作ったりしません。これはあなたが使うためであって、私が使うためではなく、私は使いやすいかどうか試しているだけですから、どちらにしても私たちはちゃんと学法しなければなりませんよ」と言って私を絶句させました。私はAさんの家から追い出されてしまいました。
私が4200のドライブを持って、Windows8システムを使っている別の同修の家に行くと、インストールは非常にうまくいきました。
帰宅すると既に正午でした。私は心の中では全くAさんのことを根に持っておらず、師父はいったい何を私に悟らせようとなさったのだろうと考えました。その後、くどくどうるさくて理性的でないAさんのことや、Aさんと行動を共にしている同修を私は見下げており、それに対して、Windows8システムを使用しているこの同修や、何人かの同修の間には、まったく何のわだかまりもなかったので、ドライブのインストールが非常にうまくいったのだ、と悟りました。
午後になって心は思い乱れました。こんなにも長年、協調と資料を作る仕事をやって来て、こんなにも長年Aさんに協力し、Aさんの資料拠点は私が手取り足取り教えてここまで来た・・・私はこんなにもAさんに誠意をつくしてきたのに、Aさんは他の人とパートナーと組んで私を遠ざけてしまい、私たちすべての大法弟子がしなければならないことに対して、Aさんはあのように隠し立てをして・・・と、私は思いが晴れず、心を静かにできず、頭に浮かんできたのは全て他人の不足でした。しかし幸いにも、「私は向上しなければならない」ということにはっきりと気づき、私は強制的に冷静になって考えてみることにしました。次の日、師父の説法を午前中いっぱい聞くと、心は静かになりました。
その後の数日間、プリンターが提示した「互換性がない」ことについてずっと考え、この「互換性がない」ことを通じて師父は私に何を悟らせたかったのだろうか、と考えました。ある同修にこのことを話すと、「どうして他人が行うことに執着する必要があるのですか」と言い、さらに、私と接して感じたこのは明らかに自分に執着する心があると話しました。さらに同修は、表面上私は自分を協調人とみておらず、実際自分がしなければならないことに非常に執着している、と言いました。そして同修は「これは旧宇宙の理であり、あなたは他人を変えたいと思っていますが、自分は変えたくないと思っているだけです」と言いました。また別の同修は、他の同修とのトラブルにおいて、いかに自我を放下し向上するのか、その過程について話してくれました。そして、「以前は自分がすごいと思っていた」といい、「宇宙は繁栄し、さまざまな生命がいる」という同修の言葉に、私はもっとも深い印象を受けました。
同修と交流しましたが、まだ解決の糸口を見つけられず、Aさんが指摘したのは私の執着の一部にすぎないと理性的には感じましたが、寝る時以外にも、仕事、食事、歩いている時も私はいつも内に向けて探していますが、どうしてAさんは、私が口論したがっている、と言ったのでしょうか? そういえば、私には自我に執着する心がある、と同修は言っていましたが、この自我に執着する表現形式が「口論」だったのでしょうか? さらに、私には「嫉妬心」がある、と同修は言っていましたが、何人かの同修を見下げている、この背後にあるのが嫉妬なのではないでしょうか? Aさんたちが向上できる環境にあり、Aさんたちがあのような強い率先力を発揮したことを、表面上は喜んでいますが、「7.20」以前に協調人になり、表に出て来てやっと1年半になったあの同修と一緒に歩んできましたが、そのAさんは同修の前で私をこきおろし、資料を配っている状況を私に話さないように2人の同修に伝えましたが、「喜びの陰にあるわずかながらも言葉にできないしっくりこない何か」とは何だったのでしょうか? それが嫉妬心だったのではないでしょうか?
Aさんとのトラブルが発生してから何日も経たないうちに、私は同修に「私には洪大な寛容がないことが今はっきりとわかりました」と話しました。他の人を見下げる心を持って、このような強烈な嫉妬心を持って、自分が常に正しいと思うこのような自我に執着する心を持って、どうして他人に対して寛容であり得るでしょうか? 宇宙が繁栄しているのは、宇宙の持つ大きさが宇宙の中の全てに対して寛容だからです。大海がどうして百もの川を受け入れられるのか、それは大海が自分自身を低い位置に置いているからです。
プリンターの互換性の問題で、同修との間に隔たりがあることを師父は私に悟らせようとなさったのでした。座禅しながら学法するのはもともと1時間しかできなかったのですが、法理がはっきりすると、その日の夜は1時間半も座禅しながら学法できましたが、次の日の静功は1時間10分しかできなかったのは、良くない考えが頭の中を巡っていたからでした。引き続きよくない考えを抑えましたが、再びよくない考えが巡って来て、また良くない考えを抑え、最後に本当に自分を高めることができ、やっと1時間半の静功をやり遂げることができました。「法理を悟るだけではダメで、必ず着実に修める過程がなければ、向上することはできない」ということを体験して会得しました。
心性が向上してきた後、ある同修の家に行くと、別の同修にも会い、私が修煉を始めた時からその同修はくどくどうるさくて理性的でなく、さらにその同修の表現には善がうかがえず、地元で私をのけ者にしようとした同修と親しく付き合っており、その同修とある同修の家でばったり出くわしてしまい、私はその同修の交流には一度も参加したことがなく、考え方の違いからもその同修たちとよく衝突していました。その日、その同修と出くわした時、心の中からも、その同修と衝突するという感覚はなく、自分の包容力が大きくなり、さらに交流の場が非常に和やかになったと感じ、その同修と交流した時も一語一語が法に基づいていると感じました。
その日、師父は念入りに按排してくださり、私と同じような執着心を持った同修がその場におり、その同修がどのように修煉すればいいかわからず、苦しい情況に困っているのを見て、他の人を見下げる心、自我に執着する心や嫉妬心がその同修にあることを、善意を持って指摘すると、その同修はにわかに心の重石が取れたような感覚を覚え、体がすぐに軽くなったようでした。
これら一連の出来事は、パソコンの互換性がない問題を通じて師父の慈悲深い啓示から始まり、私の心性が向上してから出会った全ての人や出来事は、すべて師父が念入りに按排してくださったのです。今回のことを通じて、「修煉の歴史の中で、同修と結ばれたものがよい縁であろうが、悪い縁であろうが、必ずすべてのへだたりを取り除き、法を全ての基準の指導としなければ、共に向上することはできず、共に昇華することはできず、最後に脈もなくツボもない状態に達することなど到底できない」ということを、私は悟りました。
以上は個人の現段階での所見ですが、不足の所があれば同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。
(明慧ネット第12回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)