傲慢な心と独りよがりの心を取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年11月10日】最近師父が手引して下さり、自分の根本的な執着である傲慢な心に気付き、それを修めるよう努力しています。この問題は非常に深刻で修煉者の心より魔が生じることを招きかねません。今この問題について文章をまとめ、同修の皆さんのご参考になれば幸いです。法に則していないところがあれば、慈悲にご指摘をお願いします。

 数日前、師父の『二〇〇三年元宵節での説法』を学びました。師父は「私は自分の独立した体系を持っています」[1]と説かれました。この部分を読んだ時、頭のなかに正しくない念が生じました。しばらくその考えに沿っていろいろ考えた後、突然自分の法に対する疑念と師父に対する不敬な要素が含まれていることに気付き、驚きのあまりすぐに学法を中断し、心を静めてこの考えの源を探し始め、そしてこのような考えが生じた理由について考えました。

 法に対する疑いと不信感は無神論に由来していす。自分が洗脳班で大きな過ちを犯した時の心理状態を思い出すと、やはりこの無神論が法を信じない原因で、圧力に耐え切れず間違った方向へ進んでしまいました。洗脳班での体験を詳しく思い出すと、それだけではなく自分の頭のなかに「自分が一番偉い」という妄念が混じっており、自分が他の人と違い特別であり師父が自分の過ちを許してくださるはずだと思い、頭のなかで師父と取引していました。さらに深く掘り下げていくと嫉妬心が見え隠れしていました。師父に嫉妬していたのです! 私は非常に驚き恐れました。自分でもそれを認めることが出来ず信じられませんでした。その瞬間、師父が私の生命の深くてミクロな光景を見せてくださいました。数本の黒くて太い棒状のものが互いに支え繋がっており、中が空洞の球状の物体が見えました。見た目は頑丈そうでした。それは自分の空間場の中で、深いところに正しくない要素がお互いに依存し私の表面の考えと行為に影響を及ぼしていたと悟りました。

 2日後に同修と集団学法をした後、この件について交流しました。交流している内に私の頭の中ではっきりと「傲慢」の二文字が現れました。これこそが私のあらゆる正しくない念の根本であることに気付きました。

 帰宅した後、私は引き続き、長年自分の修煉に困惑をもたらしていた原因について考えました。数年前に私が自分の修煉過程を振り返ってまとめた時、自分の頭のなかにずっと独りよがりの妄念があり続け、修煉の中で様々な正しくない状態をもたらしました。修煉初期のころ、同修との付き合いを嫌い、自分が偉いと思い、また法を正す時期の修煉段階においても、自分は正念が強いから大丈夫だと思いこみ、理性を失って安全への配慮がありませんでした。真相を伝え世の人々を救い済度する効果がよい時、それを自分の功績だと思いこんで、迫害された時には師父と取引をしようとする愚かな妄念がありました。そして学法の時に自分の理解力を超えた内容を排除し疑っていました。まとめている時に自分が傲慢で理智を失った様々な行為に至った原因である「独りよがりの考え」はどこから来たのか、その原因は何か? 長年修煉してもこのような執着心がいまだに出てくることについて、原因がわかりませんでした。

 いろいろ考えているうちに数年前に見た夢を思い出しました。ある次元の中に3人の法王がいて私はその中の1人でした。その時、私の生命の中にすでに傲慢な一面があり、それが原因で大きな罪を犯しました。旧勢力は厳しく追求し私を殺そうとした時、師父が現れ救ってくださいました。夢のなかで師父の優しい慈悲の場に包まれ、穏やかで温和な感じがしました。修煉の中に現れた「独りよがりの考え」は自分の生命の深いところにある傲慢な心に由来していることに気付きました。この傲慢な心はさらに数えきれないほど一層一層の転生および法を正す時期を待ちながら輪廻転生する中で経験した名誉や高貴な身分、富貴な生活などによりいっそう強くなり、あらゆる異なる次元から表面まで「傲慢な物質」を形成しました。これは自分の生命が徐々に法から離れていく過程です。

 数年前、師父は『精進要旨二』「圓満成就に向かって」の中で、「修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです」[2]と、弟子達に根本的な執着を見つけるよう求められました。修煉の中でも自分の根本的な執着を探しましたが、法を得た当時は高校生だったため、病気を治す目的で大法の修煉を始めたわけではなく、正念をもって修煉し始めたと思い込んでいました。今振り返ってみると、当時から自分が人より優れ抜きん出ていると、常人を見下していました。師父の説法のビデオを見た時から、大法は修煉であることがわかっていました。法を得た時、自分の生命の深いところから喜びを感じていながら、その中に自分の根本的な執着も混じっていたことには気付かずに、修煉してさらに高い次元に上り、自分が他の生命を超えることによって傲慢な心を満たしていました。

 最初に現れた常人に対する傲慢な態度が修煉して自分の次元を高めているうちに段々と自分が悪くないと思うようになり、常人だけでなく同修より上に立ちたいという妄念が生じ、自分の傲慢な心が満たされました。修煉の中の現れとして一旦良いことをした後、自分がよく修めていると思い込んだり、あるいはあることに対して同修よりよく修めていると思い、歓喜心が生じたりしていました。傲慢な心が満たされた時、独りよがりや優越感を感じたりします。段々と他の修煉者を見下し常人を軽蔑し自分が人より優れている等と思い、また法をもって他人に要求し他人の執着や常人の欠点を受け入れられず、他人を指導するような態度で問題を指摘し、受け入れられなかった時は不平不満に思い、他人がよく修めていないと思い軽蔑しました。表には出しませんがこれが原因で同修との間に隔たりが生じたり、常人とトラブルを起こしたりしました。

 師父は法を正す中であらゆる生命に対して平等に扱っておられるのに、自分の「傲慢な心」と「独りよがりの心」があるがゆえに師父の洪大なる慈悲を自分へと特別扱いと勘違いしてしまいました。自分は他人と違うという、傲慢な心が絶えず強くなっていきました。これこそ自分の心より魔が生じることで、最後になって敢えて師父と大法に対し不敬な考えが生じるところまできてしまいました。

 今師父はなぜあの黒い棒状に組立られた球状のものを見せて下さったのか、その理由が分かりました。それは独りよがりの心で、他の生命に対する傲慢な心です。

 その傲慢な心は生命が自分に対する執着であり、独りよがりの心です、この執着は形成された後、強まっていき、執着心を守るような観念も強められました。その基点は私心であり、他人を排除し、旧宇宙生命の堕落した現れであり、新宇宙の無私無我の純粋なる善の基準から完全に背離しています。修煉者がそれを取り除かない限り、それに左右され、トラブルの中で責任を逃れようと外へ向かって探し、法をもって他人を測り、自ら真に内へ向かって自分の不足を探すのではなく、「内へ向かって探す」ことを手段として本当の執着を守ろうとし、表面上の行為では法に符合するよう気を遣ったりしますが、実はこれは偽りの修煉であり、自らを欺き、他人をも欺くことになります。そうなると、自分自身の漏れを見つけることができず、他人への思いやりや配慮もできず、さらに真に真・善・忍へ同化することもできませんでした。

 「傲慢な心」と「独りよがりの心」は生命が大法に同化する巨大な障碍です。師父が法を正すことへの妨害は嫉妬心が主要な原因です。この嫉妬心は又彼らの独りよがりの心と自分より低い次元の生命を軽視する傲慢な心から由来しています。師父がこの世で法を説かれる時、旧勢力を含め、同時に高次元にいる生命にも説法されていますが、法を正す中で師父の本当の次元や身分が分からないため、傲慢な態度で法を正すことに対処し、彼らより低い次元の生命を扱い、自分自身を大法に照らし合わせることをせずに、自分たちが求めていることに執着し、無数の生命を壊滅し、師父の按排を敢えて壊し、師父が法を正す過程の中の本当の障害となりました。

 独りよがりの心と傲慢な心は相互に補い合い、互いに依存し合う、旧宇宙の堕落した現れであり、修煉者にさまざまな正しくない状態をもたらしました。名誉を重んじる心、利益を求める心、歓喜心、嫉妬心、顕示心、闘争心、自負心、劣等感、自我への執着、他人を見下し、嘘偽り、怒りや恨む心などなど、また自分の修煉に対し真摯な態度ではなく、師父と大法に対し不敬であり、しまいには自分の心より魔が生じるようになりました。この執着が深く潜んでいるため、修煉者が自分の正しくない状態に気付き内へ向かって探す時に、探し当てることができず、表面的な執着に容易に気付いたとしても、この根本的な執着を見逃してしまいました。

 私はこの傲慢な心を見付けた後、やるべきことが分かりました、それはこの執着心を修めて取り除き、大法に即した考えや行動にそれを代替えし、自分を完全に大法に同化するよう要求しました。学法しているうちに、大法によって作り上げられた生命は大法と師父に対し敬虔と謙虚でなければならず、覚者や他の修煉者に対し尊重、理解また敬意を払わなければならず、低次元の生命に対し同情、寛容そして思いやりや配慮をしなければならないと分かりました。

 法理がはっきりと分かった後、私は意識的に謙虚に、師父が説かれた「正しきは彼 過ちは私」[3]の法理に照らし合わせ、「自分が正しい」という思考回路を放棄し、常に頭の中でできるだけ「他人が正しくない」考えやこのような観念を抑え、排除するよう努力し、物事を考える基点をできるだけ他人を理解することに置くようにし、自分を顕示しようとする考えや行為を警戒し、自分に傲慢な心と独りよがりの心を取り除くよう常に注意していました。このように努力するにつれ、私は自分が段々誠実に寛容で優しくなり、もっと他人への思いやりや配慮できるようになり、常人の考え、動機そしてその考えの由来について気付きやすくなり、そして真相を伝える中で聞き入れてもらえるよう常人の心のしこりを容易に解きほぐしてあげることができました。大法は私に新たらしい次元の現れを見せてくださいました。とても玄妙で殊勝でしたし、心地良い感じがしてさらに心が広くなりました。

 以上は短い数日間の体験ですが、正に師父が説かれたように「われわれの法門は、人心を真っ直ぐに指すもので」[4]、「われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉がきわめて速いのです」[4]。私は修煉の過程で再び大法の玄妙さや奥深さを体験し、師父が説かれた法がすべて真実であることを実感できると同時に、さらに修煉の厳粛性や大法の修煉者に対する基準の厳しさをも再認識できました。

 頑迷な弟子を包容して下さった師父の御恩、そして慈悲なる済度に感謝いたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨二』「円満成就に向かって」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
 [4] 李洪志師父の著作:『転法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/3/316992.html )
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/10/21/153318.html)
 
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