文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年11月29日】大法弟子は皆、他人の執着に執着すべきでないことを知っています。しかし、具体的なことに遭遇するとそう簡単にはいきません。今度は同修の執着に執着する現象が見られました。
グループ学法に最近参加し始めた、哲学を教える先生(同修)は、話の中から強烈な党文化や弁証的思惟方式が感じられます。この同修は一篇の交流文章を書き上げ、私に入力してから投稿してほしいと言ってきました。その文章から、どう見てもこの同修は法理が良く分かっていない気がして、私は一、二、三、四と順番に一つずつ同修に指摘しました。しかし、彼は納得いかず、弁証的理論を持って私と議論し、グループ学法の際も同じでした。私はこの同修とどう交流すべきか、そして、どうやって他人に影響を与えないようにできるかを考えました。
私は彼の家族(同修)とこの件について話し、逆に、自分を良く修め、同修の状態などに執着しないようにと言われました。どんなトラブルがあっても、それは私が向上できるよう師父が按配して下さった修煉のチャンスです。目を外に向けず、その執着の心を放下すれば、同修の状態も変わります。トラブルの出現自体、それは自分の修煉の機会です。自分を修めず、同修ばかりを見ていると、自分はどうやって向上できますか? そう思って、私が自分の執着心を放下した時、再びその同修に会うと、彼は、「あなたに言われた問題をじっくり考えてみると、本当にその通りです。その数か所を修正してみました」と言いました。
昨日の交流の際、別の同修はこのようなことを言いました。
『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』の中で、師父はマルチ商法、直販の問題について言及されました。うちの学法グループにも、大法弟子の中でマルチ商法を行っている同修がいて、その問題について指摘すると、彼はあらゆる理由をもって自分には問題ないと言い張りました。その時、私は思いました。自分は他人を変えようと執着しているのでは? どうしても他人に自身の間違いを認識してほしいと執着しているのでは? 同修として善意をもって指摘してあげるだけで十分です。結果などに執着すべきではないのです。そう思ってから数分も経たないうちに、その指摘された同修が近寄ってきて言いました。「考えてみたのですが、やはり私のやり方には問題がありました」。本当にいかなる状況下でも、私たちは自分を修めるべきです! 同修の執着ばかりに目を向けてはいけません!
少しの体験ですが、妥当でない部分があればご指摘をお願いします。