真の敬虔について
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/寧静慈悲

 【明慧日本2014年12月4日】修煉の中で同じ法門の弟子を見ていると、後期修煉の中で様々なトラブルにぶつかっており、多くの感慨があります。私は、歴史の中で、何度も修煉のため弟子入りした経験があり、一人の弟子として、多くのことを感じて悟り、師父に対しても、遠い昔から敬虔の心を持っていました。きょう、自分の弟子としての体験と感想を述べたいと思います。

 それぞれの業界の見習い弟子が才能を見せ、その業界、或いはその流派のすぐれた芸を発展させている姿を見るとき、私はいつもその人のためにひそかに喝采を送っています。人が弟子を見事にやっているのを見て、自分も師父の弟子として、師父が教えられたものをどれだけ悟り、どれだけ身に付けているかを総括して、それによって、師父が伝えられたその法門の卓越した学問と威徳を広げて行かなければならないと思いました。人がいかにして弟子としての責任を果たし、いかに勇猛精進しているかをみて、それを参考にして習わなければなりません。弟子として、弟子の役割を果たして、師父が按排されたことをしっかり実行することは弟子の心からの喜びです。それは真の敬虔です。

 修煉の同じ法門の中にいる同修の間に、様々な出来事があり、それはまた、異なる心性の位置を反映しています。歴史上、修行というのは名利の心を消去することを目ざしています。往々にして出家して佛、道を修める起因は、人生のなかで不本意なことや社会の闇の部分を見すぎたため、名利や地位に淡泊になろうとして、解脱する法門を探す人が多かったのです。しかし、宗教の中で長く修行しても、私(し)のための心が芽生えてしまう人がよく見られます。修行をして、少し成就したら、一部の人は、山を下り、自分が修行して成し遂げたものを発揮する場を見つけて、自分の成果を早く披露したいと思う人がいます。また、修行の中で、年功序列に慣れ、自らベテランぶりを論じ始める人もいます。そのような人は、自分より能力のある人に出会うと、内心では穏やかでなくなります。いつも人に囲まれ、あれもこれも聞かれていたのに、急に別の人が囲まれてしまうのを見て、心のバランスが崩れ、嫉妬心が芽生えてしまいます。これらはよく見られる人心です。この現象は決して少なくありません。

 『封神演義』の中の姜子牙と申公豹を例にしましょう。元始天尊は姜子牙に神を封じさせましたが、しかし、姜子牙は行きたくありませんでした。彼は自分の根基が浅いと感じ、一生師父についていくことを望んでいました。しかし、師父は彼に神を封じさせました。彼は本当に行きたくなく、しかし師の命令に逆らうことも出来ないため、仕方なく山を下りました。一方、申公豹は修行して、姜子牙より時間が長く、資格と経歴も格上で、大きな神通力を持っていました。彼は自分の腕前がこれほど大きく、頭が切り落とされても元に戻せると自慢していました。無能な老いぼれの姜子牙に神を封じさせることは、彼が大いに本領を発揮する計画を急にだめにさせ、彼の心の均衡を崩しました。

 「他人のことが気に入らない」という心も嫉妬心を引き起こしやすいのです。私の場合、能力的に本当に自分に及ばない人に出会うと、私は出来るだけ相手のよい面を見るようにし、自分が学ばなければならない長所を見つけるようにします。また、相手が必要としているのは自分の慈悲なる助けであって、見くびった排斥ではないと考えます。もし自分が相手を助けることが出来なければ、それは自分の慈悲と知恵が足りないことを意味します。無力に感じることは、自分の慈悲と知恵と力がまだまだ不足していることで、自分を高めなければならないと思います。

 生活の中にはたくさんの生き生きとした例があります。たとえば修行して、多少成果を上げ、自分がほぼ成就したと思う人は、新たな流派を設立して、自己を実証しようとします。真の修煉者は、ただ修煉する願望があるだけで、新たに流派を設立して、気功師になる願望はないはずです。しかし、もし弟子が心性に十分注意を払わなければ、自分を実証する気持ちが生まれ、結局のところ、修煉して、法を利用して自我を成就し、法から得たものを利用して、自分の人間としての幸せな生活を満たし、自我の願望を強くします。ですから、修煉は無私無我の清浄な境地が求められるのです。

 無我というのは、本当に自分をなくすのではなく、ただ「自分の角度」からものを見ないことです。たとえば、科学者は遺伝子組み換え食品を研究していますが、彼らは自分の角度から認識して、農作物の虫食い問題を解決しました。しかし、彼らは宇宙の物質の循環システムを破壊したことを知る由もありません。

 同修の中に、講演をして法を乱す行為がありました。私の理解では、彼らは自分がよいことをして、他の同修を高めることを手伝っていると考えていたかもしれません。しかし、心性の境地が完全に無私無我の状態に到達していない時、法のためによいことをすると言うのは、自分を実証することになりかねません。無私無我の視点から見れば、生命が良い考え、或いはよい願望を発した時でも、それは一つの執着心かもしれません。なぜなら、それは自分が何かをしたいと思っているからです。その目的は「私」のためであって、自己を実証する心となります。

 一部の同修は私が良く修めていると思っており、何か問題があれば、よく私に聞きに来ます。私が同修を助ける時、特に気をつけていることは、同修にどの方面に心性の問題があるかを指摘して、その執着を見つける手助けをし、また同修に師父の原文を読むように導き、彼に自分の法理に対する理解を悟らせます。たくさん交流をして、彼に影響を与えるようなことはしません。なぜなら、同修の向上は師父のご按排であって、私が按排するものではないからです。

 もし名利の心がなければ、同門弟子に排除され、不当な扱いを受けても、あまり気にしないでしょう。釈明してみて、聞いてくれなければ、それでも構いません。なぜなら、その必要はないからです。すべての生命に自分を理解してもらわなくてもよいのです。生命は独立しているので、必ず自分を理解しなければならない義務はありません。むしろ、自分が他人と慈悲に接し、他人を理解すれば、それで十分です。

 高次元では、一念で椅子を作れば、椅子が出来上がり、机を作れば、机が出来上がります。作られた椅子が、自分は椅子になりたくないと思うのは、それは可笑しい話で、それはいい気になって自分を見失うことです。

 師父の前で、真の敬虔な弟子になれるよう、心を一つにすべきです。特に、今生で法を正す師父の弟子になれることはこの上ない光栄です。常に自分と法の関係を正さなければなりません。

 個人の認識です。正しくない所は慈悲にご指摘ください。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/18/300391.html)
 
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