文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年4月22日】最近、私が住む地域でいろいろな出来事が起こり、自分は本当に、人の事を思いやり、私心がなかったのかどうかについて考えました。
私が住む所に80歳になる年配の同修がいます。彼女は真相伝えの仕事を担当しているだけでなく、家に真相ビラを置き、受け取りに来る同修のために、便宜を提供しています。ほかに、品物の仕入れをしたり、同修の個人用品(MP3)を買いに行ったり、同修の家で見つかると、証拠にされてしまいそうな資料を隠し持ってあげたりしています。彼女の家は倉庫のようになっており、家のあちこちに資料、DVD、DVDのケース、機械などがいっばいです。彼女は長年大法の仕事に忙しく、学法の時間もあまりなく、身体も精神状態も悪く、明らかに修煉の状況がよくありません。そうなっていても、全く気がつかない同修もいて、相変わらず真相ビラを受け取りにいき、頼みごとをし、更には噂を聞きこの同修が疑わしいと言う同修もいました。
ここまで書いて、私はとても恥ずかしく思えて来ました。「大法弟子」と呼ばれることも恥ずかしく思います。
修煉というのは、「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)。私達は衆生を済度することを口実に、真相ビラを受け取りに行くときに、一つは師父の弟子でこの上ない光栄で、人間社会でもう大覚者になったつもりでいます。もう一つは自分にとって都合がよければ、人の事など考えないという冷たい心があります。このような考え方は本当の私達でしょうか? 違うはずです。それは常人社会の中で身についた悪い習慣で、本当の自分ではないのですから、悪い物質として排除しなければなりません。学法をしていて思うのは、何事も人の事を先に考えなくではならず、同修も一人の生命なのに、どうして思いやることができないのでしょうか。同修が色々な仕事を担当していて、大変なのがわかっているのに、少しも分担しようという気持ちにならず、見てみぬふりができるのでしょうか? もちろん中には、仕事を分担しょうとした同修もいました。でも、あれやこれやと都合が悪く、家庭の状況が許さないとか、技術がないとか、買う場所がわからないとか、とにかくできないのです。少しでもやってみようという気持ちがありません。結局困難なことは同修に譲りますということになるのです。修煉というのは順風満帆なことはありません。困難があるからこそ自分を高めることができ、修煉を通して心性を高めて困難を乗りこえられるのです。それが修煉で、人を救うことにもなります。逆に私利私欲の気持ちでやっていれば、どうやって自分を高められるでしょうか?
師父は私達に大道無形の路を歩むことを教えられています。真相ビラを作る場所がもっと多く出来る事を望んでおられます。こんなにも多くの同修が自分の修煉を高められず、真相ビラを作る場所を作らずに、一つの場所に頼ってしまうやり方は、師父が私達に求めておられることでしょうか? 今回彼女が警察に連れて行かれた時のことを覚えていますか? 警察の人が彼女の家からどれほどの品物を持って行ったと思いますか? 同修がこんなにも迫害を受けているにもかかわらず、我々はまだ眼を覚まさないのでしょうか? 同修よ、どうか自分を振り返ってみて下さい。自分の問題はどこにあるのか、本当に自分を修煉してこそ高まることができるのです。そして、衆生を済度するのも神聖なことになります。
この年配の同修の所へ資料を貰いに行ったことがある人は、どうぞよく考えてみて下さい。この同修をどのように助け、彼女の修煉状態が戻るために、どう助けるべきなのか考えてみて下さい。どうか今後は私達は共に精進をして、お互い助け合い、もう二度々このような事が起きないように、大切な同修が遅れを取ったり、こんなにも大きな損失が起きないようにがんばりましょう。