文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年2月26日】師父は『オーストラリア法会での説法』の中でおっしゃいました。「生死を放下することができれば、あなたは神ですが、それができなければ、あなたは人間にほかなりません」 また、『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」の中で、師父はこうおっしゃいました。「修煉者がたとえどのような情況にあっても生死の念を放下できたならば、邪悪は必ず恐れ慄いてしまいます。すべての学習者がみな、それができるのであれば、邪悪はおのずと消滅してしまうのです。」
それ故、師と法を信じ、生死を放下することは私たち大法弟子が必ず達すべき状態です。成熟した修煉者なら皆、深く心得ており、それが出来れば、修煉の道のりにある多くの関や難はちっぽけなものになります。
それなら、真に生死を放下するとは何でしょうか? 「死を恐れない」だけで生死を放下したと言えるのでしょうか?
常人の中で人生が思い通りにいかず、生きて行くことに自信を失い、ついに自殺に辿りつく人は死を恐れていますか? いいえ、恐れていません。それなら、彼は生死を放下したとは言えますか? 答えはノーです。恐れていないどころか反対に、彼は自身の一種の強大な思想業力の圧力を受け、情から派生した様々な変異物質に包まれ、あまりの苦痛の中で主意識が降参し、人生を諦めた行為であり、一種の逃避、意志の弱さの現れであり、自分をコントロールできない現れです。
また、常人の中で自分の命を大事にせず、勇敢さや残忍さを競う人もいます。これは生死を放下したとは言えますか? いいえ、違います。それは自身の魔性に操られた一時的な衝動に過ぎません。いったん冷静になれば、あるいは受けるべき懲罰を受けた後、彼は自分の行為に後悔するでしょう。なぜなら、彼の当時の行為は理性に欠け、真の自分ではなかったからです。
病業に悩まされ、最後に入院した大法弟子がいます。同修は生死を放下するように言い聞かせますが、彼女は「私は生死を放下できますが、痛さに耐えられません」と言います。また、邪悪に迫害され、降参してしまった同修もいます。彼も「死なせて下さい。死ぬなんて怖くありません。しかし、この長い苦痛はとても耐えられません」と言うかもしれません。
考えてみて下さい。死ぬ時に美味しい料理を楽しむような感覚、または夕陽の中、海辺で優雅に散歩する爽やかさ、気持ちの良さがあれば、誰が死を恐れますか? 「苦痛に恐れる」こと自体が生死を放下していない証拠ではありませんか? 実際、常人にはあまりに大きい業力があるため、常に苦痛が伴い、耐えることができません。しかし大法弟子は大法修煉の中で幾ら辛くても、その苦痛は自分の耐えられる範囲内におさまり、時に耐え難いですが、それでも耐えられる範囲内にあります。どうしても耐えられないと感じた時、それは必ず、師と法を信じることに問題が発生した時だと思います(もちろん、ずっと強い正念で正々堂々と修煉してきた弟子は、邪悪に隙を見せず、この種の苦痛もないと思います)。
古今を通じて、常人の誰もが死を恐れていることのもう一つの原因は、常人には数え切れないほど多くの捨て難いものがあるからです。例えば、自分の子供を手放したくなく、財産を手放したくなく、自分の妻子、主人...などなどです。死ぬとは、これら一切のことを放棄することになり、手放したくないために、死を恐れています。
故に、真に生死を放下するとは、本当に死ぬことではなく、修煉の過程で修煉者が常人の一切の執着や欲望を放下し、ひいては自分の最も憧れているものを放下し、最も手放したくないものを放下し、自分の肉体に対する執着までも放下することで、平然として穏やかな境地に到達することです。それが出来れば、病業の悩みや邪悪の迫害など、修煉の道のりにある一切の煩わしいものが消えてしまうでしょう。
この境地に到達したければ、根本の根本は百パーセント、師と法を信じることだと思います。
以上は自分の現時点の「生死を放下すること」に対する認識ですが、妥当でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします! 合掌!