「視ても見ざる、聴いても聞かざる」についてのわずかな悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年10月25日】先週の集団学法のとき、一人の同修が他の同修に指摘しているのをそばで聞いていました。そのとき、その同修の言葉に私の心は大きく動揺しました。家に帰ってから自分はなぜ外の環境にこんなにも動かされやすいのか、なぜ「視ても見ざる、聴いても聞かざる」ができないのかと考えました。「視ても見ざる、聴いても聞かざる」の法理に対して、今までは感覚上の認識しかありませんでした。どのようにすれば目の前で発生したことを見ても見ないように、耳で聞いたことに何の反応もないようにできるのかと思いました。

 今日、再びこの法理が頭に浮かび、これは私がこの法理に対して改めて悟らなければならないことだと思いました。目の前に現れる光景を、どうすれば見ても見ないようにできるのか、周りの声を聞いても、どうすれば聞かないようにできるのかと非常に難しく思いました。真に人心を放下して、修煉者の角度から法で計ってみたとき、状況は変わりました。目の前の光景に動揺するのは、執着心を放下することができないために生じた心でないかと思いました。

 外見の身なりや、顔立ちが美しい人が目の前を通り過ぎるとき、心が動きます。信号を無視してみだりに渡る人を見ると心が動きます。二人が聞き苦しい言葉で言い争うとき、心が動きます。世の人々が真相を伝える大法弟子に暴言をはく時、この人は本当に済度しがたい人だと思ってしまうことがあります。どのような現象にも自分の考えがあり、時にはそのような考えがとまりません。このような心でどうすれば見ても見えないようにできるのでしょうか。

 「聞かざる」ことについても考えてみましょう。女性が汚い言葉を使うと心が動きます。みんなが中国の経済は崩壊すると話せば、自分の仕事はどうなるのだろうと心配します。同修の言い方、やり方が法の上にないとき、こんなに長年修煉したのに、まだこの様子なのかなどなど、いかなる言葉にも反応してしまい、連想してしまいます。このような心でどのように「聞かざる」ことができるのでしょうか。いかなる外在の情報にも私の心は動いてしまいます。はなはだしきは妄想にふけってしまい、それは修煉者の状態とは言えません。

 「視ても見ざる、聴いても聞かざる」のような状態になるには、まずこの心を捨てなければなりません。この執着心を取り除いてから、見たり聴いたりしたときも心は動かされることはありませんでした。この光景、音声が過ぎ去ってからも、心には何の痕跡も残らず、自然に「視ても見ざる、聴いても聞かざる」ようになりました。

 同修である妻は、私に次のように話してくれました。師父は『転法輪』の中で「実際われわれがものを見る時、人や物体の存在の形は人間の脳に画像としてできるのです。つまり、目で見たものは、視神経を通って大脳の後部にある松果体に伝導され、そこで画像になるのです。言い換えれば、本当に画像を形成し、ものを見る場所は、大脳の松果体のあたりだということです。現代医学でもそれを認めています」とおっしゃいました。心が動いていないときは、この画像はただ目にとどまるだけで、松果体にまで伝わりません。つまり本当に見ないことで、見て心を動かさないことではありません。

 続けて、『転法輪』を学ぶ中で、心に執着があれば、何を見ても、聞いても心は動いてしまい、妄想にふけることに気づきました。つまり「視ても見ざる、聴いても聞かざる」状態になることはありえません。もし心が正しくなければ、自分の心より魔が生じることもあり、自分を台無しにしかねません。最後に私たちは師父の『洪吟』「道中」の経文をもう一度振り返ってみましょう。

 「心在らざれば、世と争うこと無し
 視ても見ざれば、迷わず惑わず
 聴いても聞かざれば、其の心乱れ難し
 食しても味わざれば、口その執着を断つ
 做して求めざれば、常に道中に居る
 静にして思わざれば、玄妙を見る可し」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/10/22/264320.html)
 
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