文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年11月10日】私の周りにいる同修は正しく内に向けて探すことができず、多くのトラブルに出遭う同修や、いかに内に向けて探すかが分からないとネットで訴える同修を見て、私は心を痛めました。私も多くのトラブルを経験し、やっと内に向けて探す方法を学ぶことができましたので、この場を借りて自分の所見を述べ、同修の参考になれば幸いです。
一、何を探すのでしょうか? それはまさに自分の心性です。まずやり遂げるべきことは、「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」(『転法輪』)ことで、表面上だけでなく、心が全く動かないことが肝心です。一部の同修が家庭の関をうまく乗り越えられないのも、この点においてきちんと実行出来なかったからです。トラブルに遭ったら、まず自分の心が動じたかどうかを見なければならず、実際の事柄そのものについて論争すべきではありません。例えば、家族に「床がきちんと掃除出来ていない、ご飯がまずい、冷蔵庫のドアをしっかり閉めていない、料理の火加減が強すぎてガスを浪費した、稼ぎが悪い、能力がない」などなどと指摘されたり、あるいはいきなり罵声を浴びせられたりします。事柄の中に陥って探すならば際限がありません。私もある日の朝、おかずを一つしか用意していなかったことで、主人に怒られました。ある同修は食事をもっと豊富にすべきだと助言してくれましたが、私はそう思いませんでした。わが家の家計水準からして、おかず一つで家族には十分だと思います。この時、私の心が動くかどうかが試されます。私は心を動かさず、いつも通り彼にやさしく接し、彼に言われるままにせず、しばらく経ってから元の良い環境に戻りました。
トラブルの中で、一部の同修は家族と議論したり、弁明したり、苛立ったり、あるいはその不和を旧勢力による迫害だと言い張ったりしました。実際、個人修煉の関であれ、旧勢力の迫害であれ、出現したら、私達はそれを自分の心性を向上する良い機会だと捉えるべきです。心さえ動じていなければ、関を乗り越えたと見なされると思います。一部の同修は熱心に自分の執着を探し、多くの人心を見つけ出しましたが、探す過程で自分の心も大きく浮き沈みしました。それが修煉でしょうか? 心がいつも浮き草のように容易に動じられるなら、執着を幾ら探し出しても真に自分を修めたとは言えません。「弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます」(『精進要旨』(「道法」)
二、心が動じないことは各方面に体現すべきです。内に向けて探す行為は自分の執着心の有無を探し、執着があれば必然的に心が動じ、なければ何に対しても平然となれるはずです。例えば、家族の情、愛情、友情などに対し心が動じるかどうか、自身の利益に心が動じるかどうかなどで修め、円満成就に近づく頃、本当に平然となります。一部の同修は自分に恨む心や情、この心、あの心があるなどと言いますが、それこそ心が動じているのではないでしょうか。師父がおっしゃるように、情に対する執着を放下して初めて慈悲心が生まれます。
羅漢の果位に達すると、いかなる常人のものにも心が動かされません。心が動じられたことは、まさに執着心の現れではありませんか? もしどんな状況に遭遇しても心が動じなければ、心性は要求に達したと私は認識しています。執着心が出てきた時、まずはそれをはっきりと認識し、その後取り除くべきです。同時に、修煉の中でより多くの学法を続け、例えば自身に問題がある時、向上する願いを持って心を静めて学法すれば、法が自然に私達を悟らせます。学法の過程は私達が向上する過程でもあり、学法が最も重要です。
三、本当に心が動じていないのに、魔難が絶え間なく続くのであれば、自分のどこに漏れがあるのか、法理をはっきり理解できていない部分があるのか、または間違った観念を持っているのかなど、自身の問題を省みるべきです。師父はこの方面の法を説かれました。
個人の現次元での所見ですので、不足する部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。