文/シカゴの大法弟子
【明慧日本2012年11月9日】尊敬なる師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!
修煉を始めて4年、以前は着実に修煉することとは何か、どのように内に向けて探すのか、私は分かりませんでした。「三つのこと」をしながら、楽しくないことや順調でないことに出遭っても、過ぎたらすぐ忘れてしまい、深く考えて原因を探しませんでした。去年の下半期、私は当地区の神韻宣伝の協調人になってから、はじめて内に向けて探すことを学び始めました。
一、神韻を宣伝する中でコンプレックスを克服
2012年神韻公演のための宣伝が始まった頃、私を含む数人の地区協調人は各図書館に中国文化と神韻を紹介する事案を検討しました。最初に採用した神韻紹介のプレゼンテーション原稿は、他州の教授が書いたものでした。自分には博士の学位がなく中国文化に対する理解も浅いので、プレゼンをするには適しない、常人は私のような学位も知識も持たない人にきっと興味を持たない、私がプレゼンをしてもきっと聞いてくれないと、私はミーティングで発言しました。検討した結果、仏学会の責任者には博士の学位と仏学会責任者の肩書きがあるので、プレゼンの担当責任者を彼の名前にすることに決めました。
私が連絡を取ろうとした一つ目の図書館は当地区の裕福な都市にあります。私がアポを取らず直接責任者に会うと、彼女は私の簡単な紹介を聞いた後、「あなたたち、どんな資格を持ってこの紹介をするの」と聞き、これはちょうど自分の心配していた問題ではないかと思い、私は驚きました。慌てた私はますます自信がなくなりました。最後に彼女は「考えてみる、また連絡するから」といい加減に返答して、私も今日は失敗したとすぐ分かりました。
次の協調人会議で私がその日の経過を報告すると、ある同修は「あなた、悪い結果は心配すればするほど発生するのよ」と言いました。彼女の言ったとおりで、小さい頃から私はコンプレックスを持っていました。私は特技やお金、高い学歴や地位などを何も持たない平凡な人間なので、自分より上の人に会うと劣等感を感じました。プレゼンの原稿を書いたのは教授で、私には彼に匹敵する学識や社会での地位がないため、私がプレゼンをすると信憑性が低いのではないかと思いました。修煉の角度から言うと、私のコンプレックスの本質は名と地位を大法弟子よりも重要視する執着から生じており、それは不正な念です。数十億人の中で大法弟子になること自体がいかに光栄なことなのか、私は金銭と地位で買えないものを所有しているのに、なぜまだ俗世間の名や地位を気にかけるのでしょうか? 自分の執着をはっきり識別してから、私は順調に複数の図書館、ロータリークラブ及びその他の団体に神韻のプレゼンをするアポイントを取りました。
しかし観念と執着は根強く、一気に取り除くことは難しいのです。ある日、私達は某図書館で神韻宣伝のイベントを企画しました。その町には大学があるので、イベントの参加者に大学教授がいる可能性も高いのではないかと思いました。そこで、神韻紹介のプレゼンをするには、私より学識やユーモアを持つ同修のほうが良い効果を収められるのではないかと思って、学識があり話し方にもユーモアが溢れていると皆に思われている同修のAさんが私の頭に浮かび、彼にプレゼンをするように依頼しました。
イベント当日に私は早めに会場に着き、資料を用意してコンピュータもテストをしました。次々と30人ほど来て、子供連れで来る人もいました。身なりから見て、みんな主流社会の人のようでした。開始時間の直前になってAさんはやっと慌ただしく駆けつけました。時間の関係で、彼に代わって私がプレゼンをすると提案しましたが、Aさんは問題ないと言いました。そこで、慌ただしく私のパソコンを外して彼のパソコンをつないで、テストもしないままプレゼンを始めました。
しかし観衆はAさんの紹介に心を惹かれた様子もなく、ほとんど反応を示しませんでした。Aさんは以前似たようなプレゼンをやった経験があり、毎回会場をとても良い雰囲気にさせたのですが、観衆の冷たい反応を見て、Aさんも明らかに焦りはじめました。ユーモアの雰囲気を出すために努力しようとして、かえって彼の英語は文法や語彙も支離滅裂になりました。後ろに座った私は、この突然の状況に驚きました。神韻紹介の短編映画を再生する時に、音響も予期せぬ故障をして、すぐに直したのですが、宣伝効果は大きく下がりました。ようやく終わって、観衆はただ儀礼的に拍手をして、誰も質問をせずに、がっかりして解散しました。一緒に行った数人の同修もみんな落ち込みました。
家に帰って、私は非常に辛かったのです。表面から見れば、今日の失敗の原因はAさんが観衆の熱情を煽ることに失敗したところにありますが、しかしこのような事が起きたのは、一人だけの問題ではありません。では、私には一体どんな間違い、どんな執着があるのでしょうか? Aさんは謝罪と反省のメールを送ってきて、私は「私にも責任がある」とメールで返事をしましたが、しかし自分の問題点を探し出せませんでした。一緒に行った同修のBさんも内に向けて探して、「自分には正念が不足しており、イベントに来る客が少ないのではないかと心配していた」と言ってくれました。
翌日、どうして自分の代わりにAさんにプレゼンをしてもらいたいと思ったか、その考えの出発点を再び分析して、とうとう自分の執着を発見しました。私はやはり世の中での能力や地位をとても重視していたのです。自分の学歴や社会的地位が高くなく、ユーモアのセンスも持っていないことを理由に、自分より学歴や地位が高い観衆に対して説得力がないのではないかと心配していました。実は、私は数多くのプレゼンをやった実績があり、ユーモアの雰囲気を作り出すことはできませんでしたが、正念、誠意、流暢な英語で観衆の心を動かしたことはしばしばあり、すでに実績に証明されていたのでした。では、どうして私はまたその執着を固守して、本来そのイベントが果たすべき衆生を救う効果を損なったのでしょうか?!
私が自分の執着を正しく探し当てたので、慈悲なる師父は私にもう一回機会を下さいました。2日後、私は同じ町のロータリークラブで神韻紹介のプレゼンをするチャンスを得ました。今まで通りの話し方で、今まで通りの自分の雰囲気で、ユーモアの効果を達成するための工夫もしませんでしたが、50人の来客は私の紹介に深く惹きつけられて、笑い声があちこちから沸いて、みんな神韻、法輪功および私個人の生活についてたくさん質問しました。私が参加した神韻宣伝活動の中で、その日は来客が最も積極的になってくれた日でした。皆さんの質問と私の解答から、参加者は神韻の基本的な状況を知ることが出来たと思います。その日の来客には企業の経営者、大学教授、交響楽団の指揮者などがいました。多くの人は家族と友人を誘って一緒に神韻を見に行きたいと、嬉しそうに教えてくれました。
師父は『二〇〇三年旧正月での説法』で「真相を伝える時、相手がどのような身分の人なのかを考えないでください。何かの心を抱かないでください。彼らはまず人間であり、皆自分の未来のために選択するチャンスがあります。相手がどんな職業の人であっても、まず将来がなければならず、これは人間にとって最も重要なことです。真相を伝える中で、人間の根本的な問題に当たった時、同時に大法弟子が本当に自分を救ってくれていると感じた時になると、人間の分かっている一面が現れてくると思います」と説かれました。
(続く)