内に向けて探し、同修間の隔たりを取り除く
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文/中国の大法弟子 秀華 

 【明慧日本2012年11月9日】全体的に向上するために、この半年間、私は協調人と一緒に他の学法グループと交流しました。遠方であるため、私は協調人を私の自転車に乗せて通っていました。最初は、他のグループと学法ができ、多くの同修と知り合うこともでき、共に精進し向上することができると思ってとても喜んでいました。しかし、時間が経つにつれ、私の人心が徐々に膨らんできて、協調人の同修が気に入らなくなりました。同修の話も正しくなく、同修の家へ迎えに行く時、同修は早めに出て待っていてくれず、雨の日など私は下で待たなければならないなど、不満に思うようになりました。これは嫉妬心ではないかと気づいて、私は正念を発して取り除くようにしました。

 ある時、私は協調人に自分の考え方と法の上で気がついたことを話しました。私は単に自分の考えばかりを話し、同修の考えや同修がどのように協調するかを考慮せず、同修の見方がまったく気に入りませんでした。ついに、私たちは旧勢力に隙に乗じられてしまいました。

 これもまた学法の日のことですが、学法が終わってから、私は協調人のあることに対して、言うべきでないことを再び言ってしまいました。同修の人心がそれに刺激されて爆発しました。同修は「もう二度とあなたと一緒に学法に行きません。これも間違っている、あれも間違っていると言い、私がひたすら自分の不足を探しても、まだ間違っていると言われ、これでもまだ行く必要があるのですか? 本来は同じ学法グループが皆一緒に向上すべきで、私がいつも間違っているのならば、私はまだ行って何をするというのですか? 私はもう行かないわ」と不満を漏らしました。話を聞いて私はすぐに言い直しました。「あなたは他の事はしっかりできているし、ただこれだけはちょっと足りないの」しかし同修は「とにかく次回は行かないわ」言いました。

 帰宅してから、私は心を静めて内に向けて探しました。同修はひたすら自分の不足を探しましたが、私は探しましたのでしょうか? 私の話は法に基づいておらず、全体が向上することを理由にして、自分の嫉妬心を隠していただけでした。師父は『転法輪』の中で「真に道を修める人同士でも互いに認めないことがありますが、闘争心を無くさなければ、嫉妬心が生じやすいのです」と説いておられます。

 翌日、私たちは一緒に学法し、同修の不満そうな顔を見て、私は心の中で嘲笑しました。同修の機嫌が悪いのは私のせいで、しばらくすればよくなるだろうと思っていました。帰宅してから、ここ数日間、同修の私に対する態度は悪く、数日後に同修ときちんと話をしようと思いました。

 3日後、私は急によくない念が頭に浮かんできました。「この同修はもう私を相手にしなくなるかも。もう彼女と一緒にいない方がいい。彼女はもう駄目だよ」という念が出てきてきました。しかし冷静になると、同修はそうではないと分かっています。しかしまた、彼女の不満そうな表情を見て、「もう行かない方がいいんじゃないの?」という念が再び出てきて、その後また冷静な心になり、「彼女は一時的に不愉快なだけで、法理には適っている」と思いました。

 5日目、私の良くない念はますます強くなり、頭の中がすべて同修のよくない表情と言動でいっぱいになりました。この時、私に警戒心が出てきました。これは明らかに私の嫉妬心のせいで、旧勢力に隙に乗じられたのです。これは一種の妨害で、私と同修の間に隔たりを作っているのです。私は直ちに座禅して発正念をしました。

 6日目、同修と会った時、私は積極的に挨拶しました。私が手を洗っていた間に、同修は外へ真相を伝えに行きました。その時、ある声が私の頭に入ってきました。「ごらん、彼女はあなたのことが気に入らないのよ」私は気分が悪くなり、胃がむかむかしてきました。私は「もう旧勢力に妨害されてはならない。皆が真相を伝えに行ったのであれば、私も行こう」と考えました。そして心の中で正念を発して、邪悪の妨害を解体しました。真相伝えを終えてから、私は再び同修と会った時、また一念が浮かんできました。「もう彼女を相手にしないで。彼女は私のことを構うことはもうない。早く帰った方がいいよ」

 しかし、もう一つの念もありました。「全面的に旧勢力の按排を否定しよう。旧勢力に作られた隔てを取り除こう」私は以前と同様に同修に挨拶し、そして「一緒に行動し、一緒に真相を伝えましょう」と誘いました。同修はあっさり承諾して、私たちは大変うまく協力し合って真相を伝えました。一緒に帰る途中、私はこの何日間かの体験を話しました。同修は聞いた後に、笑いながら言いました。同修は「あの時、人心が出てきて、私は心性を守れなかったの。腹を立ててしまって、気にしないでください。危うく旧勢力に隙に乗じられるところでしたね。これからは一思一念にも注意しなければなりませんね」と言いました。

 「お互いに協力し合うとき、人心があるから摩擦が生じるのであって、それは修煉者の状態であり、過程です。決して誰それが本当に良くないのではありません。良くできた部分はすでに見ることができず、隔離され、皆さんが見たのは永遠に修煉がまだできていない部分です。しかし、皆さんは慈悲心を持つべきであり、変わらない目で相手を見てはいけません。私は再三に、良くできた部分を皆さんは見ることができず、その部分はすでに非常に良くなり、基準に達したと言っています。基準に達した部分はどういう状況でしょうか? 神の基準です。良くできていない部分は表面に進めば進むほど、ますます悪くなりますが、彼の修煉はすでに良くできています。皆さんが自分自身や相手、そしてこの環境を大切にするよう望んでいます。歩んできた道を大切にするのはつまり、あなた自身を大切にしているのです」(『大法弟子とは何か』)

 私たちは法をよく読み、常に人心に注意しましょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/10/17/264136.html)
 
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