文/中国の大法弟子 離塵
【明慧日本2013年3月7日】この一年間、私は幾つかの学法グループに参加し、同修と一緒に幾つかの真相を伝える活動を行い、その間で気づいた良くない部分について皆さんと交流したいと思います。不適切なところがあれば、同修のご指摘をお願いします。
一、衆生を救うことだけを修煉と見なすタイプ
このタイプの同修によく会います。彼らは衆生を救うことだけを修煉とし、事を多く、良く行うことを良く修煉していると見なし、心性の向上が遅く、法理についてもはっきりと認識出来ていません。『転法輪』の中で、師父はおっしゃいました。「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです。」 衆生を救う真相伝えの過程でトラブルにあったり、困難に出会います。この過程で私達は自分の心を修め、無条件に内に向けて探してはじめて心性を向上させることが出来ます。ある人は自分が多く、良く行った真相伝えの量や質で自分の修煉状態がよいと考え、甚だしきに至っては自分を誇示したりします。常人社会の事は神に按排され、多くの大きな出来事は天象によるものです。人間は天意に沿ってやるべきことをし、どの程度まで、どんな成果を手に入れるかは人間の意志ではどうにもなりません。私達修煉者が出会うこと、行っていることのすべては、黙々と行ったかあるいは大きな反響を及ぼしたかに関わらず、ただ自分の誓いを果たしている、または歴史的按排だったかもしれません。その中に師父の安排もあるし、旧勢力の安排もあります。修煉し、事を行う過程において、絶えず自分を放下し、私心を取り除き、師父の安排された道を歩み、心性を益々向上させてこそ、神々に敬服され、師父も功を伸ばして下さると思います。行っていることの大きさ、良さはその一件の出来事の出来具合に過ぎず、しかも良く行うのは当たり前だと思います。天上の神は人間社会の事の大小、良し悪しに「心が動かされる」ことはあり得ますか?
ある同修はここ数年、沢山の衆生を救う事をやってきて、しかも大きな反響を及ぼしました。その一部は邪党から「注目案件」とされたほどです。彼の行ってきたことを聞くと、本当に敬服したく、同修達も彼の要求なら出来る限り協力し無条件に満足させるようにしています。しかし彼と交流する過程で、私は彼も自分の修煉を自分の行っている衆生を救うことの量で量っていることに気づき、彼自身も、沢山の事を行ってきたにもかかわらず、自分を良く修めていないような認識を持っています。事があればただそれを行い、自分の心を修めることが分からず、内に向けて探すのも苦手だと言い、良く修めている同修と比べると、境界の差が大きく開いているのを感じているそうです。
『転法輪』の中で、師父はおっしゃいました。「誰も他人を責めるまでもなく、みんながそれぞれ一役買っているのです。ですから誰でも修煉すれば必ず苦難に遭遇するのです。」私達が修煉の中で遭遇する困難やトラブルは、私達自身の輪廻転生の過程での業力や後天的に形成された観念によるものです。それらを取り除かなければどうして功を得られますか? 師父は私達の修煉の為に異なる事や環境を按排され、その中でもし、私達が法をもって自分を判断し、良くない心を取り除くことができ、事を良く行い、人心を取除けば、それこそは師父が求められていることです。執着心を無くせば、トラブルが自然に解消され、どんなに大きな困難でも解決されます。これは修煉であって、常人のことではなく、法に従い行動すれば、全ては師父が見ておられます。
二、無条件に内に向けて探さないタイプ
ある同修は無条件に自分の内に向けて探さず、事の表面現象に囚われ、多くの人心を取り除くことができず、救った衆生は少なくなく、事も沢山行ってきましたが、本人の向上が遅れています。例えば、ある同修は熱心に他の同修を助けようと、あまり精進していない同修を連れて真相を伝えに行きます。助けられた同修が協力せず、イライラし、嬉しくない反応を見せると、助ける側の同修は自分の内に向けて探しますが、自分には何の間違いもないのだから、何を探しますか? 幾ら探しても自分の良くない心が見つからないと言います。これは事の現象に拘って探しているからです。同修の誰もが自分の次元にいて、問題認識や是非判断の基準が違います。そして同修の一人一人は自分の基準に沿って物事を運び、当然自分が正しいと思いがちです。このように内に向けて探せば、どうやって執着心を探せますか? 自分が間違っていないと思った時から、条件が付けられました。同修を助けるのは間違いではなく、執着でもありません。しかし事の現象から離れ、本質を考えるべきだと思います。助けられた同修の反応が自分の意に沿わない時、自分はどんな心情を持ち、心が動じたかどうか、怨む心が起きたかどうかなど、もしあれば、この件においてそれらは私達が修めていくべき心だと思います。『転法輪』では、「佛家では、人を済度するにあたって、条件を言わず、代償を求めず、無条件に助けるということ」との教えがありました。もし私達は何の心も持たなければ、同修もそのような反応を見せないはずだと思います。
もう一つ例を挙げましょう。私はある男性の同修と一緒に協調の仕事に携わり、私は非常に気を使ってベストを尽くし、同修も多くの人心を取り除きました。遠くまで行くことが多く、心身共に疲れを感じでいました。しかし、私達は毎日くっついて離れず、不当な関係があると同修に疑われました。私は自問し、そのようなことはなく、その男性に対し全く良くない考えを持っておらず、男女関係などはなおさら論外です。同修にデマを飛ばされ、私は少し不平と悔しい気持ちを覚えました。しかし冷静になってから考えてみると、私はやはり無条件に自分を探しませんでした。修煉者が遭遇することには偶然がありません。この男性の同修に良くない心がないとしても、他の人に対してはどうでしょうか? あるいは自分の男女の情や色欲心がまだ取り除かれていないのではないでしょうか? そのような行為がなくても、そのような執着心があれば、このような「デマ」に遭遇するのではないでしょうか? これは正に自分の悟りが必要で、良くない心を見つけ、取り除いていくチャンスではありませんか?
三、自分を厳格に律さず、観念を変えていないタイプ
家庭内または同修と接する中で、ある同修はトラブルに遭った時の第一念は自分を見るのではなく、自分がいかに正しく、相手はいかに間違っているかを強調します。師父の説法では、神は他人の是非を気にせず、人心が取り除かれたかどうかに重きを置きます。例え自分が100パーセント正しく、相手が完全に間違っているとしても、自分を無条件に探さなければならず、こうしていつも内に向けて探すうちに、自然と習慣になっていきます。ある同修は「真面目一点張り」で、他人の言動が一致しないことを非常に気にし、相手の間違いを徹底的に追及し、穏やかでいられず、自分が正しいと最後まで思い込みます。実質、それは心の容量が低く、寛容でなく、他人の間違いを容認できず、自分を実証しているのです。また、ある同修は学法するときは修煉者ですが、本を置いた途端、常人に戻ります。ある人は内に向けてどう探すのかが分からないと言いますが、分からないの一言で自分の向上を遮断してしまいます。
実質上、根本にあるのは、自分を厳しく律さず、内に向けて探す習慣を形成せず、即ち、観念を変えておらず、自分を修煉者として認識しておらず、実修していないということです。探すことができるかどうかに関わらず、無条件で自分を省み、修煉したい一心があれば、師父は見ておられます! 師父は私達を分からせて下さいます。「それらすべてを師が段取りをして、やってくれるので、「修は己にありて、功は師にあり」と言われるのです。あなた自身はそういう願望を抱いて、そう思うだけで、実際のことは師がやってくれるのです。」(『転法輪』)
ある同修はトラブルに遭うと逃げたくなり、意に沿わないこと、良くないことをそのまま受け入れ、事の良し悪しに関わらず良い事として考えることが出来ず、観念が変わっていないのでトラブルに遭うと本能的に外に向けて見、不公平に思う人心が生じます。こうして向上のチャンスを次々と逃してしまいます。実際、毎回のトラブルや同修と協力し行っていることは偶然に発生したものではなく、全てに理由と機縁があって、逃せば永遠に逃してしまうことになります。その中にはどれだけの師父の心血と苦労がかかったのでしょうか。
観念を変えた同修はトラブルを自分の向上のチャンスと捉えています。トラブルがなければ人心の露呈もなく、それではいかに取り除いていくのですか? 彼らはチャンスをしっかりと掴み、外に向けて探すはずがなく、不平不満を覚えるはずもありません。この状態で修煉して行けば益々修煉しやすくなります。
修煉状態が良くない同修を見ると、本当に皆が精進し、常人の一切のことを軽く考え、法の要求に従って自分を律し、様々な執着心や人間の観念を取り除いてこそ、神として立ち上がることができると思います。