「他人を見る」ことと「内に向けて探す」ことについて
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年1月16日】数日前、「明慧週刊」で私はある中国大陸の大法弟子の交流文章を読みました。その文章の大体の意味としては、作者が住む地区では数年来色々な不祥事が発生し、そこで作者は当地区の数人の協調人同修が自我に執着し、自分を実証する心が強すぎる事を指摘し、それらの同修達に自我を放下し、師父が要求されることを円融するよう促されました。

 文章を読んだ後、私は思いました。この観点から問題を見ている同修は他にもいるかもしれません。以前の私もそうでした。希望を協調人に託し、協調人がよく修めれば、全体も良くなっていくと思いました。しかし今の私はそう思いません。

 まず、これは非常に察し難い人心です。常人の中で、ある会社がよく管理されていなければ、確かにその管理者には大きな責任があります。しかし、修煉者として常人を超越した私達においては、この理は不適切だと思います。何故ならば、私達一人一人が修煉しており、自分の地区の状態の善し悪しはそこの一人一人と関係し、協調人だけと関係しているわけではありません。もちろん、修煉者としての協調人は自分の内に向けて探すべきですが、そのほかの何も担当していない同修達も自分自身を見てみるべきではありませんか?

 実際、私達一人一人の修煉者も非常に重要です。トラブルに直面した際、私達一人一人がどのように問題を考え、どのような一念が動じたかは大事で、一人一人が真に内に向けて探したかが最も肝心だと思います。師父は『転法輪』の中でおっしゃいました。「もしみんなが心の内に向かって修めれば、まったく違う状況が生じてきて、あなたがいちいち義憤を感じたりしなくてもよいようになるのです。」

 もし誰もが協調人の修煉状態を重視し、もし彼に本当に執着があって、更に多くの同修が人心をもって彼の執着を増強すれば、彼はそれを変えるにも容易ではなくなります。協調人は皆さんと同じく普通の修煉者の一人で、間違いも起こします。そもそも師父は私達の一人一人がよりよく自分を修めることを望まれ、そうしてはじめて根本的変化を遂げます。また、多くの出来事はもともと仮相であり、重く思う必要がなく、重く思えば思うほど問題解決が難しくなります。師父のおっしゃるように、「相は心から生じる」(『大紀元会議での説法』)からです。仮相に惑わされず、師父と法を堅く信じ、自分を修めることに専念しましょう。同修達もきっと自身をよく修め、法の中で自分を正していくと考えましょう。もし皆がこのように考えれば、協調人もきっと早く良くなっていくでしょう。見た、聞いたことに動じず、自分を修め、着実に三つのことを実行して行けば、よい結果はきっとついてくるのではないでしょうか?

 また、わが地区の同修達は最近大法の仕事に忙しく、個人の修煉を疎かにし、心を静めて学法出来ず、内に向けて見ずに他人をばかり気にするようになったのではないでしょうか? どんな事があっても、私達はやはり他人を見ずに内に向けて自身の問題を探すべきです。なぜなら、皆にはそれぞれ違う修煉の道があり、模倣することはできないのです。もう一度師父の経文、『オーストラリア学習者への説法』を学習しましょう。この説法の中で、師父は再三に内に向けて探すことを強調され、それこそが問題解決の鍵となります。

 もしあなたはどなたかの同修あるいは協調人に問題があると思うなら、背後で議論せず、慈悲を持って彼に直接伝えるべきだと思います。その同修に正念を与え、彼の空間場に良くないものを投げ込むべきではないと思います。「誰もが気に入らない」という心で他人の非を見ないで下さい。それが人心です。神には何の念も起きないはずです。また、同修を嫉妬せず、謙虚になりましょう。

 個人的な見解ですが、妥当でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/1/15/267820.html)
 
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