修煉は人心を取り除くことが第一
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2012年12月30日】編集部の文章と『あなたは修煉者ですか        ◎ 師父評註』が12月19日に明慧ネットに掲載されてから、当地の資料担当者はすぐにその両方を印刷し、学法グループや個人個人の手に資料を回しました。あるグループは皆が集まって、1回だけ資料を読み、簡単に討論して学法を終えました。一部の協調人も、同修達にこのような事があったことを知らせる程度でいいと思っていたようですが、私は違う考えを持っていました。

 これは普段の学法の状態とも関連があると思います。普段学法する時に、「一日に何講読んだか」という量を重視する学法のやり方では、真に法の内包を掴めず、心性の向上は得られず、魔難に遭っても頭に法がなく、どのように内に向けて探すのか、どう修めていくべきかが分からなくなり、心が動じてしまいます。もし師父の新経文に対し、同修達が真に法を学び、心から佛法の内包を理解しようとすれば、感覚的な認識に留まらず理性的な認識に昇華し、法に溶け込み、トラブルに遭っても法に基づいて判断することができます。そうすれば、心が動転して「どう修めていくべきか分からない」状況から脱出できるのではないでしょうか? また、学法の良くない状態を変えていくには、協調人の認識も非常に肝心だと思います。

 「しかし重大な問題は必ず明慧ネットの態度を見ること」(2000年6月15日の明慧編集部の文章、『近日中に、7月22日以後の第二篇の師父の真の経文が発表される予定』)と『明慧ネット十周年法会での説法』を皆さんは学んだと思いますが、そのような断片的な言論で明慧を攻撃するものが出てきたら、なぜ一部の学習者はそれに迎合したり、つられたりするのですか? これはまさに学法と着実に修めることが足りない現れではありませんか?

 現在、大陸の大法弟子の中に二通りの人がいます。一つは学法に参加はしますが、大法のことをしたくない人で、もう一つは、大法のことを一生懸命しますが、法理を深く認識することを疎かにする人です。普遍的に見れば、心性の向上は遅れていると思います。

 もう一度師父からの訓戒がありました。「修煉は人心を取除くことで、同時に、人心を固守し、事を乱している人を淘汰することでもあります。学習者の中で不正事が起きた時、それはまさに人心を取り除くべき時であり、また、誰がついていけるかいけないかを見分ける時でもあります。現れてくる現象はさまざまですが、表面上のことは漏れのある、または人心に執着している人だけが惑わされます。皆さんに一つお教えしましょう。明慧ネットに対し多様な手段を持って攻撃しているのは邪悪だけではなく、学習者の取り除かれていない人心も良くない作用を引き起こしています。あなたが出来るかできないか、修煉が終わっていなければまだチャンスがありますが、全てが未知数でもあります」(『あなたは修煉者ですか? ◎師父評註』 2012年12月19日 ・・・日本ではまだ未発表?   

 師父の説法の中で、「人心を取り除くこと」が強調されました。事を乱しているのは人心で、惑わされているのは人心で、良くない作用を果たしているのは人心で、淘汰されるのも人心を固守する人です。それゆえ、人心を取り除くことが衆生救い済度する上で必要であり、真に神になる過程であり、これこそが師父への恩返しでもあります。「知る」だけで、人心を取り除かず、内に向けて修めなければ、修煉の機縁を放棄することに等しいのです。「知る」だけでは、いい加減にあしらっていることになり、真に人心を取り除くことこそが真に修煉することだと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/12/28/267011.html)
 
関連文章