修煉を明確に認識し、法の中で精進する(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年10月25日】今日、同修が書いた文章を読んで、とても感動しました。ここで同修の観点にそって自分の考えを述べたいと思います。

 人が修煉を堅持することができるかどうか、法を正す進展についていけるかどうかは外部の環境や、精進している同修の助けがあるかどうかに関係はないはずです。私は自分が歩んできた修煉の体験と自分の認識から、法理の上で法を認識して真に向上することを同修の皆さんと交流したいと思います。私たちが明晰に修煉を認識し、修煉の目的と修煉の体験を認識できたら、法輪大法の修煉はもっと堅固になり、三つのことをしっかり行うことができると思います。

 修煉の当初、私たちは皆法輪大法が良いと思っていました。なぜなら、私たちは体の変化や功能などを感じて、大法および師父の偉大さを認識したからです。感性の認識の下で私たちは大法の修煉を始めたのです。この感受は大法修煉者のほとんどが感じており、皆が病気治療と健康保持ができ、大法を正しく認識して、心から師父と大法に感謝したのです。

 この感激の心を抱えて私たちは師父の要求されたことを行いました。師父によく学法するようにと言われたら、たくさん法を読み、さらに法を暗記しました。しかしこのすべては表面上の形式に止まっており、一部の同修は多くの法を暗記したものの、その学法自体を一種の形式として、真に自我を変えていません。どうやって自我を変えるのか? 何を変えるのか? と言うことを知らないまま、法を暗記する量と煉功時間の多寡により、修煉の状態を評価します。誰がどれだけ座禅し、誰がどれだけ経文を覚えていたなどと論じます。しかし、迫害が始まってから、これらのいわゆる良く修煉出来ていた同修は修煉をやめてしまいました。もちろん法を暗記することが無駄だとは言っていません。私が言いたいのは真に理性的に昇華して欲しいということです。修煉の形だけを認識して、さらにその形を自己顕示して実績だと思うのは間違いです。だから迫害が起きたら人心が強くなり、修煉をはっきり認識できなくなり、やめてしまいました。このような人は修煉とは何かを知らず、どうやって着実に修煉するかを知らないのです。

 例を挙げて話しますと、私はかつて留置場に監禁され、『転法輪』を暗唱できなくて大変つらかったのですが、ある日一人の同修が押し込まれてきました。彼女は『転法輪』の第一講を覚えていたため、暗唱してもらいました。実は私も監禁される前に、すでに暗記したことがあるのですが、覚えると前の部分を忘れてしまいました。留置場で同修と一緒に学法、煉功することができました。しかし偶然の出来事に私は大きなショックを受けました。ある日一緒に煉功したところ、第三式で時計回りに法輪を回した時、私が目を開けると、彼女は逆方向に回したのを見ました。話してみると、彼女は長年ずっとこのようにしていたし、煉功点でもこうしていたと言いました。 私は詳しく説明し、時計回りの意味を教えてあげました。ここで私は同修の悪口を言っているのではなく、97年から修煉した同修がいまだに間違った動作をしていたことは、どれだけ修煉を粗末に認識していたのでしょうか。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/9/29/263361.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/10/22/135998.html)
 
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