「言い訳」と「内に向かって探すこと」
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文/オーストラリアの大法弟子

 【明慧日本2012814日】「問題があったら内に向かって探す」、これは師父から授かった修煉の宝物であり、トラブルや問題に対処する際の、修煉者と常人との最大の違いです。当然、同修もこの法理を知り、普段の修煉の中でこのように努力していると思います。しかし現実の生活、仕事、修煉の中でどれだけ真に内に向かって探すことができているでしょうか。私は内に向かって探しても探せず、何を探すのかすら分からない時もありました。

 原因はいろいろあります。しかし個人修煉の過程で、私の修煉環境の中で「言い訳」をするということが、修煉者が「内に向かって探す」ことを最も妨害する要素ではないかと気づきました。

 たとえば私たちが集団学法、全体交流をする中で、このようなことがしばしばあります。ある大法弟子が他の同修に対して指摘、注意もしくは提案などをすると、話し終わった途端、すぐに言われた人は「説明」し始め、たくさんの理由を言います。時にはどちらか一方がちょっと不調和な発言をすると、ずっと論争してしまいます。

 私もよくしていました。何かあったら、不本意なことが発生したら、あるいは同修や常人から自分への反対意見を聞くと、最初の反応は言い訳です。なぜ内に向かって探すことができないのでしょうか? なぜ自分は心性を守れないのかとずっと悩んでいました。

 先日、師父の1999年『オーストラリア法会での説法』を学法して、深く心を打たれました。「慈悲をもって全ての人に対処すべきであり、如何なる問題に遭遇しても自分の原因を探すべきです」その「如何なる」という言葉を読んで、問題にぶつかった時「内に向かって探す」ことをしないための「言い訳」がもうなくなってしまいました。これで私は「無条件に内に向かって探す」ことが何なのか、なんとなく分かりました。何か問題に出遭ったら、第一の反応、第一念はただ自分だけを見るのです、ただ自分だけを見て、ただ自分だけを見ます。自分の心を見て、自分の思想を見て、自分の念を見て、そして必ず法に照らし合わせて判断するのです。

 このようにすると、自分の言動や動機に理由を探して言い訳しないようになり、容易に落ち着くようになります。さらに客観的に、理知的に自分のことを見て、自分のことを法に照らし合わせて見て、自分の執着心を見つけることができます。

 法に照らし合わせると、言い訳こそが「内に向かって探す」ことをしない直接の原因だと分かりました。その言い訳の背後には、いろいろな恐れる心があります。それらの心によって、私はあれこれと説明し、解釈してしまいます。では何を恐れているのかと考えると、責任を負いたくない、誤解されたくない、執着心を見られたくない、自分の修煉不足を見られたくない、自尊心、虚栄心、顕示心、歓喜心を傷つけられたくない、などです。私はこれらの人心を護って、一生懸命言い訳を探していました。一言で言うと私心です。人を傷つけても構わないが、自分は傷つけられたくないという最も悪い心です。私は数年来の修煉の過程で、いろいろな妨害や魔難に遭っても向上できなかった原因がやっと分かりました。この心があるからこそ、ずっと様々な執着心を引き起こし、「内に向かって探す」ことを妨害されていたわけです。

 最近の7.20反迫害の集会で、私は英語で講演をし、西洋人の同修を含めて皆に褒められました。私が自惚れていると、そばにいた同修に「講演する時の語気があまり穏やかでなく、時には興奮しすぎていました。あなたは常人に大法弟子の穏やかさを見せるべきですよ」と指摘されました。すると私はすぐにこの同修に対して「説明」し、自分は英語で話しており、常人に反迫害の支持を呼びかけているので、あえて語気を少し強めたなどと、いろいろ話しました。心性の高い同修は静かに聞き、論争しませんでした。急に、先の「如何なる問題に遭遇しても自分の原因を探すべきです」(『オーストラリア法会での説法』)の一文を思い出し、同修からこのような指摘があり、当然自分に注意するべきところがあると分かりました。この同修が指摘してくれたので、必ず問題があるはずです。内に向かって探せば問題がきっとあると思いました。

 内に向かって探した結果、やはり大法弟子として、いつも高い基準で自分を律し、いつも穏やかに話し、慈悲の心を持って講演すべきだと分かりました。そうすれば、その穏やかな話こそもっとも強い法の力を発して人々の心を打ち、邪悪を排除し、人々を救い済度することができるのです。そこで、私は次回の講演では先の同修の意見に従って、心と語気を調整しました。私は心よりこの同修に感謝します。同修が直接指摘してくださり、法に対して、私に対して責任を持っていることを深く感じました。私自身もこのことを通じて、言い訳をせず、虚栄心や闘争心に妨害されることなく、内に向かって自分の不足を探すことができ、嬉しく思っています。

 この体験を書いていた朝、いつも私の欠点を拡大して批判ばかりしている修煉していない妻が、突然私も驚くような言葉を発しました。「あなたは今日、とても和やかで、しっかり修煉しているように見えますよ」理由を聞くと、私が最近妻の不満にあまり言い訳しなくなったからだと分かりました。私はもう言い訳をせず、内に向かってひたすら探し、ただ自分の原因しか探さないようになりました。

 以上は個人的な理解であり、不足のところはご指摘ください。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/7/25/260707.html)
 
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