文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年4月17日】「与える物語」という文章を読みました。ある人が砂漠を越える途中で、手持ちの水を飲み干してしまいました。猛烈な日差しに照らされて何回も倒れそうになりましたが、強い精神力を持って少しずつ前進しました。やっと粗末な小屋を発見し、彼は水を探しました。何もなくて絶望しかけたところ、小屋の近くに給水機を見つけました。力を入れて給水機を押しましたが、ちっとも水が出ませんでした。突然、そばに小さなボトルがあると気付きました。
キャップの横に、字が書いてありました。「ボトルには水が入っています。この水を全部給水機に入れて、押せば水を汲み上げられます。使い終わったら、ボトルに満杯まで水を入れておいてください」 読み終えて、この人は色々と考え始めました。このボトルを持って行けば、砂漠を越えられるかもしれません。また、もし水を給水機に入れたとして、もし水が出てこなければそれで終わりです。今の状態では、このボトルがどれだけ大事かは誰でも分かります。さんざん考えてから、彼は書かれた通りに行いました。結果、彼は見事水を汲み上げ、満足するまで水を飲んでから、自分の水筒に水をたっぷり入れて、もともとあったボトルに水を一杯に入れてそのまま置いて行きました。この人は最後に砂漠を越えました。
この人が砂漠を越えたことに拍手したいですが、もっと喜ばしいのは心の砂漠(私心)を越えたことです。そのボトルの水を給水機に入れようとする瞬間、この人はすでに勝ちました。その一瞬、彼は死生の事を考えず、他人のこと、将来の同じ境遇の人のために考えていました。その水と自分の命を一緒に入れました。当然この人は神々に助けられて、平穏無事に乗り越えることができます。
もし、そのボトルを持って去ったら、少し命が延長されても砂漠を越えられる保証はありません。それは宇宙の特性に背いたことで、天罰を受けることもあり得ます。
本日、私たちは幸運にも法輪大法を得られました。しかし、もっと多くの衆生は砂漠の中でさまよっており、私たちは宝の水をあげるべきです。自分だけが救われればよいとの考えではなりません。それなら、私たちも砂漠を越えられず、心の砂漠を越えられません。その砂漠は旧宇宙の私(し)の特性です。
大法の真相という水を遍く撒いて、もっと多くの衆生と一緒に心の砂漠を越えましょう。