文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年4月8日】佛家によれば、世に下った人々は皆、使命を持っています。それは美しい逸話を残すため、領土を拡大するため、君主を補佐するため、またはある技術を伝承するためかもしれません。しかし、大多数の人は世間に迷い、功名や利得を理想とし、本願を忘れてしまいました。もちろん、本願を忘れず、小さい頃から志を立て、一生を通して衆生を救う人もいます。
伝説によると、范仲淹(北宋の政治家、文人)は小さい頃に、ある占い師に「私の面相は、宰相になることが可能でしょうか?」と聞いたそうです。占い師は「青二才のくせに、夢が大きすぎるね」と答えました。范仲淹は恥ずかしそうに、「それなら、医者にはなれるでしょう?」と再び聞きました。占い師は彼の志を不思議に思いました。前者は地位と富を手に入れることができる宰相ですが、後者は身分が低く、一生貧しいまま苦労していく医者で、正反対ではありませんか? 范仲淹は続けて「良い宰相、または良い医者しか衆生を救うことができません。宰相になることができたら天下の人々を救うことができますが、できなければ医者になって、できるだけの衆生を救いたいと思います」と言いました。占い師は彼の言葉に感動し、「あなたは人を救う心、まさに宰相の心を持っている。あなたは将来きっと宰相になるだろう」と言いました。その後、范仲淹は本当に宰相になり、一生を通じて庶民のことを気にかけ、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみにおくれて楽しむ」の名句を世に残しました。
范仲淹はただの常人で、先天的な使命は君主を補佐し、衆生に福をもたらすことだったかもしれません。彼は一生を通して使命を銘記し、責任を全うし、宰相になることを求めたのではなく、衆生を救うために宰相になったのです。われわれ修煉者は大法弟子であり、法を正す師に手伝い、衆生を救うのが使命です。
師父は『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』の中でこうおっしゃっています。「真相を伝え、衆生を救い、これはすなわちあなたが行うべきことです。これ以外に、あなたが行うべきことはなく、この世界であなたが行うべきことはありません」。また、『シドニー法会での説法』の中で、師父は「いつも成佛することを考えているなら、それは強い執着です。この心を取り除かないかぎり、永遠に駄目です。ですから修煉は常人の心を捨て去ることなのです」とおっしゃっています。我々の修煉の目的は正法の中で衆生を救うことであり、円満成就が私たちの求めではないのです。
では、衆生を救う使命と円満成就とはどんな関係があるのでしょうか? 通常、私達が思うには、円満した覚者の基準を持って自分を律し、すなわち神の心態、境地、行為を持って自分に要求して初めて衆生を救う効果を得ることができます。師を手伝う使命は修煉者が日々思い、日々実行すべきことです。
実際、人類の歴史においてずっと昔から「他人のために自己を犠牲にする」正統文化が伝えられていました。釈迦牟尼は衆生のために王位を捨てて出家し、唐の僧侶・玄奘は衆生が仏法の真意を得られるようにインドへ経典を求めに行きました。彼らは自分の円満成就のためではなく、衆生を救い済度するために身を捨てたのです。自分の解脱だけを考えるなら利己的に過ぎて、大法修煉者が持つ志向と目標ではないはずです。
師父は『法輪大法義解』の中でおっしゃっています。「我々の要求では、あなたが常人を超えて、完全に個人の利益を放棄し、すべて他人のためにするのです。その大覚者は何のためにするのですか? 彼はすべて他人のためです。ですから、私の学習者に対する要求はかなり高く、学習者の向上も非常に速いのです」
范仲淹は若い頃から身を修め、家を治め、国を治めるという責任を念頭に置きながら勉強しました。彼は志を高く持ち、初めて儒家の真義が分かり、高く上ることができました。皆さん考えてみて下さい。私利私欲で頭がいっぱいになっている人がたとえ経文を熟読しても、経文の真義が分かるはずがなく、神のご加持を得ることも不可能です。同様に、私たちも常に衆生のことを思い、衆生を救う使命を全うする志で頑張る時、初めて法の内包が見え、師父のご加持を得ることができます。
一部の同修は円満成就のために学法し、一部の同修は円満成就のために真相を伝え、一部の同修は江沢民を告訴しなければ円満成就できないと言っています。これらの観念と行為の背景には、私心が見えます。覚者は無私です。そのような言動をする同修は正法修煉とは真逆の方向に向かって進んでおり、円満成就からもどんどんかけ離れていきます。心を浄化し、使命を銘記し、多くの衆生を救うことがもっとも重要なことです。