師父と大法を信じ 慈悲をもって人を救う
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年11月21日】私は68歳です。中国共産党が作ったいわゆる「新社会」(訳注:中国共産党政権以前の社会はすべて「旧社会」と定義されている)で、小学校2年までしか学校に行けませんでした。いつも他の同修の体験談を聞くだけでした。実は私もたくさん話したいことがありますが、何も書けないため、同修にお願いして、自分の修煉体験談を口述筆記書してもらい、同修と交流したいと思います。

 18年間修煉し、私は大法に泥をぬったことはなく、邪悪に妥協したこともありませんでした。ここ数年来、脱党させた人数は3万人あまりです。

 一、大法の不思議さ

 1996年、妹の夫の紹介で、法輪功の修煉を始めました。法輪功が佛家の高いレベルの修煉法だと分かり、返本帰心が生きるための本当の目的だと認識できました。今まで追い求めていたものがやっと見つかりました。とても興奮し、これからは自分に厳しく要求し、着実に修煉していこうと心に決めました。

 学法煉功を続け、わずか数日間で全身の持病がなくなり、その後、再発したことはありません。修煉する前は、体調が悪く、喘息、偏頭痛、胃下垂、関節痛など多くの持病を持っていました。長年、治療のために病院を転々とし、たくさんの治療費を費やしました。家計が苦しくなっても、私の病気は治りませんでした。毎日、病気で辛い思いをして、本当に苦しかったのです。修煉してから18年経ちました。身体も丈夫になり、修煉してからは一粒の薬も飲んだことはありません。以前と比べ、身体は軽やかで、歩くのも速くなり、どんなに働いても疲れを感じません。法輪大法を修煉して、心身ともに効果を実感しました。

 私の次男の嫁はリウマチ性心疾患を患っていました。1998年に突然病状が悪くなり、下半身の感覚を失い、1日に4、5回もショック状態を起こしました。病院での治療は効果が見えず、命の危険が迫りました。家族全員が焦りましたが、どうすることもできませんでした。私は「法輪功は病気治療と健康保持の効果が高いので、早く修煉するように」と嫁に言いました。嫁が「分かりました」と答えたので、私はすぐ煉功を教えました。彼女の状態が日に日に良くなっていき、わずか1カ月間で病気が完治しました。家族全員が大法と師父に感謝し、大法の不思議さを感じ、次男と嫁と孫も大法の修煉を始めました。

 二、大法と師父を信じ、正念をもって正しく行う

 1999年7.20、中国共産党による法輪功への迫害が始まり、邪悪の勢いはまるで、天地に覆い被さり天地が崩れ落ちそうなほどでした。国の宣伝機関は昼も夜も、たえず大法と師父を誹謗中傷しました。人々は不安な状態に陥りました。7月13日、地元の派出所の警官らが家に不法侵入し、家宅捜査して、大法の書籍や師父の写真を押収しました。私と夫は、それを奪い返そうとしましたが、警官の人数が多いため、一部の書籍は奪われました。夫は彼らを「強盗だ」と罵りました。

 この時期、邪悪の勢いは狂ったかのようで、世の人々もでっち上げの虚言に騙されました。師父と大法が誹謗中傷されたのを見て、私は目が覚めました。このまま見過ごすわけにはいかず、邪悪の虚言を暴露し、世の人々に法輪大法の素晴らしさと、師父は無実であるということをはっきりと、伝えなければならないと思いました。その時は真相資料がなく、私は昼間、家で手書きの資料を作り、夜になると、それを一軒一軒配りました。

 ある日、家で真相資料を書いていたところ、突然数人の警官が庭の塀を跳び越えてきて、玄関の前でドアを開けるよう大声で叫びました。あまりにも突然の出来事だったので、急いでミシンから作りかけのカーテンを引っ張って真相資料を包み、戸棚に隠しました。まだ戸棚の扉も閉めないうちに、警官らが不法侵入してきて、あちこちを引っくり返して捜索し始めました。警官らから「何をしているんだ。なぜドアを開けなかったんだ。本を読んでいたのか?」と言われましたが、私は何も答えませんでした。警官らがあちこちを引っくり返しても何も見つからず「今まで3回来たが、おまえは家にいなかった。俺の一言でおまえを刑務所に入れられるんだぞ」と私を脅しました。また「今言ったことを信じないのか」と大声で言いました。私は、警官らの態度があまりにも横暴なので、和らげようと思い「皆さん落ち着いて、ゆっくり話しましょう」と言いました。戸棚の前に一つ小さな椅子を置いて、一人の警官がそこに座りました。彼の足が戸棚の扉に触れていましたが、真相資料には気付きませんでした。この警官とは面識があるので、私は「このような家宅捜索を絶対にしないでほしい。法輪功の学習者はみな良い人です。このような事をしても、あなたに良いことはありません。悪の報いに遭わないように」と言いました。彼はそれを聞いて、何も言わず「翌日派出所に来るように」と言い残して帰りました。夫は私を心配し「自分が代わりに行く」と言いました。2日後、私が派出所に行かなかったので、警官らが再び家に来ました。庭にいた夫は、警官らが来たことを急いで私に教えました。警官らは夫の後を追いかけました。その時、私は部屋で学法していたので、本を抱きしめ、どんなに警官らが奪おうとしても、手を離しませんでした。30分あまり経ちました。夫は警官らに「皆さん、やめてください。この本は彼女の命です。本を奪うことは、まさに彼女の命を奪うことです。信じなければ、彼女を銃で撃ってみてください。それでも彼女は決して渡さないでしょう」と言いました。警官らは非常に驚き、手を離し本を奪うこともせず、立ち去りました。

 2000年12月30日、大晦日の夜9時ごろ、家で煉功していたところ、パトカーが家の前に止まりました。数人の警官が家に不法侵入して「ある事について確認したい」と言って、一緒に派出所に来るように強要しました。私は冷静になって、温かいお茶を皆に用意しました。彼らも態度を和らげて座りました。雑談をしているうちに、私はこっそり本や煉功テープを外の安全な場所に隠しました。部屋に戻り、雑談を続け、お茶を足しました。今回、警官らが来た目的は、必ず私を派出所に連れて行くことでした。警官は「ある事について確認しなければならない。もし関係なければ、またすぐ帰れる」と言いました。夫は「どうしてあなた達は、いつも正月になると嫌がらせに来るのか。去年も一家団欒(だんらん)できず、今年もまた嫌がらせに来た。妻は煉功によって健康になったし、良い人になるよう努力している。彼女は悪い人ではない。あなた達が毎回このように嫌がらせに来ると、正常な生活もできない」と言いました。警官らは夫の話を全く聞こうとせず、私を無理やりパトカーに連れ込み、派出所に連行しました。派出所に入ると警官から「おまえは通報された。同修の家に経文や大法の資料があることを認め、それを提出させなければならない」と言われました。

 警官らが同修に迫害を加えようとしているため、私は絶対に同修を裏切るまいと思い、要求に従いませんでした。警官は怒り出して、刑事巡査隊の10数人の警官らを呼び出し、私に拷問を加えました。私は立ったまま両腕を後ろに回され、腰を曲げさせられ動けませんでした。私が従わないのを見て、警官らは長いひもで私の両腕を縛りました。私が拒否すると、ひもが切れてしまいました。警官らは汗をかきながら、スタンガンで電気ショックを加えようとしましたが、私は大声で「やめなさい!」と叫びました。彼らは驚いて、電気ショックを加えませんでした。このようにして一日経ちました。夜になって私は手錠をかけられました。手錠はどんどんきつくなりました。さらに、警官に手錠を引っ張られ、ますますきつくなり苦しめられました。警官らは、次の交代の警官に「トイレに行くことも、睡眠も禁止だ」と言いました。夜中になっても眠ることができず、正念を強めるために、法を暗唱しました。その後、トイレに行きたいと何度要求しても、許可されませんでした。翌日、所長がやって来ました。まだずっと手錠をかけられたままで、私は大声で「トイレに行きたい」と叫びました。所長が入ってきて、私の手錠をはずしました。私は両手が赤く腫れあがり、腕には青や紫のあざができていました。手錠をはめられていた部分がうっ血しているのを見て、所長はわざと私の両腕を合わせ、力いっぱいつねったり、揉んだりして、私をさらに苦しめようとしました。しかし、私は少しも痛みを感じず、師父が私のために肩代わりしてくださいました。

 私とともに拷問をうけた同修が何人かいますが、警官らの罵る声、同修たちのうめき声や叫び声が聞こえました。ある同修は、拷問によってすでに歩けなくなっていました。数日間にわたって、拷問が繰り返されましたが、同修たちが何の情報も言わないので、私たち20数人は、610弁公室が設立した洗脳班に移送されました。洗脳班で75日間拘禁されましたが、私たちは妥協しませんでした。私たち全員が、警官らの宣伝を見ない、聞かない、心も動じないようにしました。その後も続けて洗脳班で拘禁され、警官らは違う手法を考えました。私たちのためにスイカを買ってきて、切り分けて渡しました。しかし、私たちは食べようとしませんでした。最後に、警官らは法輪功をやめる声明文を書いて、出来上がったものを私たちのポケットに入れました。その時、ちょうど嫁が私を迎えに来ましたが、私にかまわず、早く帰るように伝えました。

 今回の洗脳班での迫害は、同修たちと一体になって乗り越えました。それ以降、地元でこのような洗脳班はもうなくなりました。警官らは私を解放しようとしましたが、私は「10数カ月も監禁されて、謝罪もないので、家に帰りません」と言いました。警官らは私が帰ろうとしないのを見て、机をたたいて大声で「帰らなければ食事も与えないぞ、早く帰えれ! 今度洗脳班を作っても、おまえはいらない」と外に追い出しました。

 三、真相を伝え、脱党を勧め、人を救う

 洗脳班から家に戻っても、警官らはたびたび嫌がらせに来ました。そして、隣近所の人に私を監視するよう要求しました。その時、私は警官をそれほど恐れていませんでしたが、心の中では悲しくなり、これからどうすれば良いか分かりませんでした。夢の中で、師父が新しいカギを私に授けてくださり、水の中の人を救い出すよう教えてくださいました。これは、師父が世の人々の心のしこりをほぐして、早く人々を救うようにおっしゃっていると悟りました。

 それから、私は毎晩、真相資料を配りました。人に会うたびに「法輪大法は素晴らしい」と伝えました。『九評』の本が出てからは、それを配りました。真相DVDを縁のある人に渡したり、神韻のDVDを配ったり、脱党を勧めたりしました。その後、一人の古い同修とペアになって真相を伝え、脱党を勧めました。スーパーや広場、駅、バス停、病院、大通り、路地の裏でも、人に会うたびに真相を伝えました。毎日10数人から30数人、脱党させました。私たちは家に帰ってから、食事をとらないこともありました。ペアを組んで7年になりました。雨や風がどんなに強くても、暑さや寒さも恐れず、毎日休まず、真相を伝え、脱党を勧め、人々を救い済度しました。

 ある日、私たち二人が街を歩いているとき、向側から老夫婦が歩いてきて、私たちの前で「やっとあなた達を見つけました。何回も出てきて探しても出会えませんでした。早く夫を中国共産党の党員から脱退させてください。またお守りも下さい。息子や孫達にもつけて上げたいのです。私は毎日「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と念じていますと興奮しながら話してくれました。

 ある同修が「夫は校長です。何人もの法輪功学習者が脱退を進めてくれましたが、聞き入れてもらえません。あなたから夫を説得し、脱退を勧めてみてください。聞き入れてもらえるかどうか試してみてもらえますか」と頼んできました。私は「このような考えはよくない、正念を持って説得すれば、必ず脱退します」と話しました。発正念しながら同修の家に入り、ちょうど同修の夫が座って休んでいるのをみて「こんにちは、ご無沙汰しているので、会いに来ました」と挨拶しました。ちょっと雑談をしてから「実は脱退を勧めるために来ました。中国共産党の組織から脱退することによって、今後は、平穏無事になれます。中国共産党は今まで三反、五反(訳注:「1」)地主階級消滅運動、文化大革命、共産党内部権力を巡る闘争などなどたくさんの政治運動を起こして来ました、1989年6月4日の「天安門事件」でたくさんの無実の大学生を殺し、天安門広場一面は彼らの血で赤くそまりました。今度はまた法輪大法を修煉し「真・善・忍」に基づいて良い人になろうとしている人々を迫害しています。中国共産党が政権を取ってから8000万人余りの無実な人々が殺されました。これは恐ろしいことではありませんか? あたなも共産党員なので、分かると思いますが、党員になる際に、まずは中国共産党の為に血を流し、命を捧げ、一生懸命に奮闘すると中国共産党の旗の前に邪悪な誓いを立てさせられましたね。自分の命まで捧げると言ったので、中国共産党が滅びる時にあなたは生き残れますか? 脱退をしないと道連れになります。将来、大変なことになるのではありませんか?」と説得しました。最後に彼は「脱退をお願いします」と言いました。その後、彼は法を得て、大法の修煉を始めました。今は同修と一緒に出かけて真相を伝え、人々に脱退を勧めるようになりました。

 ここ数年来、脱党させた人数は、3万人あまりです。私は引き続き師父から託された三つの事に全精力を傾けて行こうと思います。これらのことは全て師父が按配され、師父が行われています。このような機縁は得難いのです。私は時間を大切にさらに多くの人を救い済度し、自分の誓いを果たしたいと思います。私のような全身業力まみれの人間を、根本から変えてくださり、私という生命を最高の次元まで押し上げ、さらに永遠の命までも授けてくださった師父と大法に感謝します。

 個人の体験ですが、適切ではないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をよろしくお願い致します。

訳注:[1] 

1951年から1952年まで、中共は「三反」、「五反」の運動を開始した。名目は、党や政府および大規模組織内部の汚職腐敗、浪費と官僚主義を徹底的に取り除くためであるが、実際は、党内の粛清及び資本家の財産を略奪することであった。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/3/315842.html )
 
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