100%師父のおっしゃる通りに行う
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年10月23日】『轉法輪』を何百回も読んできましたが、今日、釈迦牟尼が弟子に浴槽を掃除させるところを読んだ時、私は今まで「些細なことにとらわれてはいけない」と悟っていたのですが、今回は「師父の言いつけや要求に対して、弟子が為すべきことはその通りに無条件で行うことにほかならない」と悟りました。

 もし自分がその弟子だったら、師父に浴槽を掃除をするようにと言われたら、虫だらけの浴槽を見て、私はどう対処するかを考えてみました。恐らくまず「どうしよう?」と思うでしょう。それから、「浴槽を掃除すれば虫を殺さければならない、殺生になるではないか」と思うでしょう。そして、悩んだ末、自分も師父のところへ聞きに行くことでしょう。自然にそうなりがちです。しかし師父に聞くべきだろうか? と私は少し考えてみました。

 弟子の私に浴槽を掃除させるとき、私がどのような事に出会うのか、師父は分からないのでしょうか? いいえ、きっとはっきりとお分かりになっているはずです。それにもかかわらず、あえて師父が私にやらせるのは、必ず理があるに違いありません。それなら、なぜ私はまだ師父のおっしゃるとおりにできず、疑うのでしょうか? やはり自分の目で捉えた「現実」に惑われ、自分が悟った理(殺生してはいけない)で、師父を測って、対処しているのではないでしょうか? 師父を常人と見なしているのではありませんか? 師父を大覚者と見なせば、自分と師父との関係を正しく対処でき、正しく行うことができるでしょう。

 師父が創世主であり、一切を切り開いてくださった、全能な主であることを信じることができれば、疑いが生じる時、直ちに内に向けて探すはずです。法理から私たちは、師父が万事万物の過去、現在と未来をご存じでいると分かりました。それなら、師父が指示なさる時、弟子の私たちが何に遭遇するか、もちろんご存じの上です。つまり師父が私たちに行わせたことは、私たちの修煉と向上に関わりがあるから、私たちが問題に出会うのも偶然ではないのです。浴槽を掃除させるのも、当然師父の按配があります。虫を殺すのは確かに殺生ですが、しかし人間が生活していく条件も守らなければならない、些細なことにとらわれてもいけません。注意を払って、余計に死なせなければ結構です。死ぬべきものが死ぬのも当然です。 

 この段の経文から、私は次のような理を悟りました。

 1 師父が説かれている法は即ち天象です。師父が宇宙の過去未来、私たちが見えるものと見えないのも、全部一目瞭然です。ですから、すべての按配にそうする理由があります。私たちが一時的に悟れず、理解できないことは、すなわち私たちが向上しなければならないところだということを物語っています。何より師父と大法を信じることこそ肝心です。

 2 師父のすべての按配は、私たちの修煉と向上と関係しています。もし私たちは、自分の目で見えているわずかのものにとらわれず、真に師父の深い用意を理解しようとすれば、更なる進歩になるでしょう。私たちが知っているのはあまりちっぽけなものなので、決して自分が悟ったわずかの理で師父を質疑してはなりません。もし認識が「殺生してはいけない」という理に限られてしまえば、更なる高い次元の理を悟るはずもないでしょう。

 3 師父が、大覚者の一念が万事万物を生成できる法を説かれました。なぜ生成できるでしょうか? つまり大覚者以下のすべての粒子が大覚者の指令を受け、その通りに無条件で行うからです。もし一つ一つの粒子はそれぞれの考えを持ち、自分の悟りで行うと、それはまだ大覚者の一粒子とは言えますか? 大法弟子も同じ、次元が違って、悟った理が異なっていても、師父の要求に対して、100%無条件で従わなければなりません。でなければ、師父の一粒子ではありません。

 師父は創世主であり、宇宙天体のすべてを切り開いてくださいました。私たちは、師父の要求に疑問を生じる時、師父が「こうすべきだ」と直接私たちに教えることができません。そうすれば、悟りがなくなるので、私たちが修煉したことにもなりません。ゆえに私は迷いの中にいる自分に、どの状況にいても、必ず師父のおっしゃる通りに行うよう、言い聞かせています。疑問が生じれば、直ちに内に向けて探し、向上できるようにしていこうと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/16/317614.html )
 
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